美濃 | 明知城 |
ファイルNo0926 |
① あけちじょう |
道案内 ←城跡 ←県道側登り口 | |||
中央高速道恵那インタを下り、県道66号線を進みます。国道19号線をガードで越え、5Km先道の駅そばの郷の佐々良木の信号で左折し国道418号線に入ります。7Km先で右折し国道363号線に入り、600m先で山岡駅前の信号で左手方向の国道を進みます。(右方向は県道33号線に入ります。) 6Km先の明智町中心部で市場町の信号で左折し県道33号線に入ります。坂を登って行きます。1.4km先、右折します。県道の旧道が駐車場になってます。ここに説明板がありここより城跡に入れます。 あるいは、大正ロマン館から明知陣屋を経由し城跡に登れます。 |
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訪城備忘録 | |||
旧県道沿い搦め手口より入りました。搦手砦を越え、東の丸、二の丸を越えて本丸に入ります。東の丸に登る手前で左手に進むと出丸の下を巻くように道がありますが、これは堀で土塁コブがあり、畝堀にも見えます。北東側から北側下に明瞭な畝状竪堀が続きます。東の丸から右手方向に二の丸ですが左手方向は出丸に至ります。出丸の虎口には石垣の痕跡が残ります。この城は土塁がほとんど見当たらず防御は切岸と各郭間は堀切で分断されています。主要部(本丸・二の丸・出丸)以外の郭は主要部と連携された縄張りというより空堀で隔てられた独立した砦の集合体という感じです。昔に比べ草刈り伐採が進んで遺構は見やすくなってます。 |
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宝治元年(1247年)に加藤景廉の子の遠山景朝(岩村遠山氏の始祖)の子である景重が築城したとされます。その後明知遠山氏の居城として続きましたが、天正三年(1575年)に武田勝頼が織田方であった明知城を攻撃しました。城主の遠山景行は籠城しますが、一族の飯狭間右衛門(遠山友信)が武田方に寝返り、織田信長からの援軍の将の坂井越中守を殺害し明知城は落城しました。その後、景行の子の利景は明知城を奪還しますが天正十一年(1583年)に森氏に攻められ明知城を明け渡し徳川家康に仕えました。慶長五年(1600年)に岩村城主田丸氏の支城であった明知城を利景が攻略しました。これにより利景は慶長八年(1603年)に6530石を領して明知城西麓に陣屋を設け、明知城は廃城とされました。 |
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遠山十八支城 遠山氏は岩村城を本拠としその支城は遠山十八支城と言われます。史料でその城名は異なり明確ではないですが、概ね、下記の城が遠山十八支城 また、遠山七家と言われるのは、岩村 明知 苗木 阿寺 阿木 飯羽間 串原を言います。 明知城 苗木城 武節城 阿寺城 阿木城 馬籠城 広恵寺城 千旦林城 大井城 鷹撃谷城 鶴ケ城(神篦城) 大平城(串原城)または柿畑城 飯羽間城 中西城 椋実城(欒峰城) 佐々良木城 瀬戸崎城 土岐高山城 久須見城 振田砦 阿寺砦(漆原城) 米田城(幸田城)などが言われます。(史料よって城が違うので18以上あります。) |
2004年撮影 |
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