美濃/ | 阿寺城 |
ファイルNo0916 |
三重堀切が明瞭で、見応えのある城跡です
@ あでらじょう |
|
【道案内】 中央高速道の中津川インタを下り、国道19号を長野県方面に進に1.6Km先の手賀野の信号で右折し県道413号線に入ります。400m先で中央高速道のガードをくぐり、その先で県道は右カーブですがそのまま路地へ直進します。200m先で道が二股ですので左の道を進みます。600m先、注宅街の坂道の一番奥が手賀野配水場(浄水場)です。この配水場より100m手前の路地に左折し<配水場から来ると右折>、すぐに二又に分かれます。右手の川沿いの道を進み砂防ダムまで行きます。砂防ダム沿いを工事用の機材でできた橋を渡り、沢を進みます。沢沿いの小道に石が門のように積んであるところで川を渡ります。渡ると「御嶽神社登り口」の標識があります。この先から山で登ります。渡河したところの左手にトラロープが設置してある急坂道があり、これを登ります。登りきるとあとはツヅラ折れの細い道を尾根まで登ると三の郭に至ります。ここより右手に向かうと主郭です。 登城道の写真を下に掲載しておきましたので、参考にしてください。 ただ、夏場は草木が伸び、分かりにくいと思われます。また、蛇・熊にもご注意を。 【訪城備忘録】 2005年6月訪城時には道が分からず、最後に見つけた道には真っ黒い蛇が鎌首を上げていたため意気消沈で断念しました。2006年訪城の行きは城山尾根先端から登りましたが、本来は上記道案内の通りに行かれた方が無難です。 <2006年訪城> 私の登城は住宅団地の端で道が二又に分かれる所を左に進みます。住宅街が切れた先で石垣が弾状に積んであります。この先の境目で右手に川に下りて行く薄い道があります。20mほどここでいったん川まで下りて川を渡り、反対側の城山に登ります。相当斜面が崩れていましたが、左手側に登りやすい斜面がありましたので、そこより尾根まで登りました。道ではないです。尾根上はなだらかな斜面ですが意外に幅のあるところでした。もしかしたら、駐屯地とかで使用されたのかもしれません。ここより、南に向かって登って行きます。遺構なのか?という郭、土塁を見ながら、なだらかなところから急な斜面を登りきると三の郭に到着します。主要部は北側から南側の主郭へ郭が連なります。 <2006年訪城・2021年訪城> 三の郭は土塁が明瞭に残り、西側に大石2個が残存する90度折れの虎口がありました。尾根幅を縮めるため三の郭と二の郭の間には明瞭な堀切があり、東側端が土橋状に通路となっていて堀切側に低土塁があります。堀切には石積みもありますが神社関連かもです。二の郭に登る所はいったん二の郭東斜面を登り折れて二の郭に入る構造です。三の郭東側下の中腹に郭があり、その郭と三の郭との通路に石垣が残存していました。積み方が粗雑で、資料にも城の遺構ではないであろうと書かれてありました。やはり神社の関連なんでしょうかね。この中腹郭の下に急斜面ですが大きな竪堀状、竪土塁状があります。戻り、二の郭は中間で段差があり上下二段になってます。二の郭を越え、主郭手前にも明瞭な堀切があり、三の郭同様に西端に通路でこちらは明瞭な土橋があります。土橋側面には石積みも確認できますがこれも神社関連ですかね? 主郭は南北に長く、二段にあっている感じで、さらに、一番南側が櫓台跡と思われる高まりがあります。現在は御嶽神社という小さな祠がありました。この主郭の北側下は三重の堀切になっていて、今でも明瞭でした。この三重堀切を越えると細尾根が二カ所あり、その西側斜面は、自然地形とは思いますが急斜面に大きな竪堀状になってます。城跡は連郭式の古い感じの形式ですが、堀切が明瞭で、各郭との連絡通路は幅を縮めたり、折れを入れたりして技巧的であり、楽しめたお城でした。 【歴史】 築城時期は定かではありませんが、戦国期 飯羽間城から遠山友忠が入城しています。友忠の父の友勝が死去した際に友忠は友勝の居城の苗木城に移りました。天正二年(1574年)には武田氏の攻撃で友忠の子の友重が討死しています。この城は武田氏と織田氏の境目の攻防の城であったようです。 |
|
|
||
|
||
近くの城・関連の城:
登城道 |