美濃 / 阿寺城



ファイルNo0916

各堀切が明瞭で、見応えのある城跡です

                      主郭南側下の三重堀切

@ あでらじょう 
  別名  −−−−−

A住所:中津川市手賀野  
B目標地点:手賀野配水池
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・竪堀・土橋・石垣
G時代/人物: 戦国期/遠山氏 
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  手賀野排水場より25分


J撮影・訪問時期:2005年06月・2006年03月

  
主郭と神社

【道案内】  

中央高速道の中津川インタを下り、国道19号を長野県方面に進に1.6Km先の手賀野の信号で右折し県道413号線に入ります。400m先で中央高速道のガードをくぐり、その先で県道は右カーブですがそのまま路地へ直進します。200m先で道が二股ですので左の道を進みます。600m先、注宅街の坂道の一番奥が手賀野配水場(浄水場)です。この配水場より100m手前の路地に左折し<配水場から来ると右折>、すぐに二又に分かれます。右手の川沿いの道を進み砂防ダムまで行きます。砂防ダム沿いを工事用の機材でできた橋を渡り、沢を進みます。沢沿いの小道に石が門のように積んであるところで川を渡ります。渡ると「御嶽神社登り口」の標識があります。この先から山で登ります。ツヅレ折れの細い道を尾根まで登ると三の郭に至ります。ここより右手に向かうと主郭です。 登城道の写真を下に掲載しておきましたので、参考にしてください。 ただ、夏場は草木が伸び、分かりにくいと思われます。また、蛇・熊にもご注意を。



【訪城備忘録】

前回の2006年6月訪城時には道が分からず、最後に見つけた道には真っ黒い蛇が鎌首を上げていたため意気消沈で断念しました。今回は登りはその道で行きましたが、本来は上記道案内の通りに行かれた方が無難です。住宅団地の端で道が二又に分かれる所を左に進みます。住宅街が切れた先では左手に何か造営しているところがあり石垣が弾状に積んであります。この先の境目で右手に川に下りて行く薄い道があります。20mほどここでいったん川まで下りて川を渡り、反対側の城山に登ります。相当斜面が崩れていましたが、左手側に登りやすい斜面がありましたので、そこより尾根まで登りました。尾根上はなだらかな斜面ですが意外に幅のあるところでした。もしかしたら、駐屯地とかで使用されたのかもしれません。ここより、南に向かって登って行きます。遺構なのか?という郭、土塁を見ながら、なだらかなところから急な斜面を登りきると三の郭に到着します。三の郭は土塁が明瞭に巡り、東側に折れの虎口がありました。三の郭と二の郭の間には明瞭な堀切があり、西側端が土橋状に通路となっています。二の郭を越えて、主郭ですが、二の郭西側下の中腹に郭があり、その郭と二の郭との通路に石垣が残存していました。積み方が粗雑で、資料にも城の遺構ではないであろうと書かれてありました。二の郭と主郭の間にも明瞭な堀切があり、三の郭同様に西端に通路の土橋があります。主郭は楕円形で一番南側が一段高く、櫓台跡と思われます。現在は御嶽神社という小さな祠がありました。この主郭の南側下は三重の堀切になっていて、今でも明瞭でした。城址は連郭式の古い感じの形式ですが、堀切が明瞭で、各郭との連絡通路に折れを入れたりして技巧的であり、楽しめたお城でした。


【歴史】

築城時期は定かではありませんが、戦国期 飯羽間城から遠山友忠が入城しています。友忠の父の友勝が死去した際に友忠は友勝の居城の苗木城に移りました。天正二年(1574年)には武田氏の攻撃で友忠の子の友重が討死しています。この城は武田氏と織田氏の境目の攻防の城であったようです。

  
二の郭と主郭の間の土橋
  
二の郭と主郭の間の堀切
  
  

近くの城・関連の城:

          

三の郭と二の郭の堀切           三の郭の虎口   
石垣                    中腹の郭
@      主郭背後の三重堀切     A
      三重堀切B    連続堀切から主郭側を見る

登城道
    渡河地点             御嶽神社登り口の標識
渡河地点から砂防ダムを見る      尾根先端から城址遠景