美濃/ | 岩村城 |
ファイルNo0929 |
江戸期三大山城のひとつ・戦国女城主の城
@ いわむらじょう |
道案内 | ||
中央自動車道恵那インタを下り、県道66号線で国道19号線に出ます。中津川方面へ進み、正家の信号で国道257号線に入ります。4.5Km先で阿木川大橋を越え、さらに、7Kmほど進んだ一色の信号を左折します。(直進は国道363号線明智方面) 1.2Km先でまた左折し国道363号線(中津川方面)に入ります。500m先を右折し、また、すぐ右折し、県立恵那特別支援学校(旧岩村高校校舎)横を過ぎます。居館跡から徒歩で本丸まで登るには、旧岩村高校校舎を過ぎたところで右手に上がりますと岩村歴史資料館です。ここより案内板に従い登城道を登ります。 車で本丸に行くには、国道257号線で裏山の信号から約2.5km先を左折し登り道を登ると800m先が出丸駐車場です。 |
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訪城備忘録 | ||
2000年2月に最初に訪れて際は積雪の城跡で水墨画のような光景で幻想的でした。 秋は紅葉の色に染められ、石垣とのコントラストが綺麗です。この岩村城は、近世城郭の中で日本三大山城(高取城・備中松山城)のひとつに数えられる城(標高721m)です。ほぼ縄張りは完存しており、各所に残る石垣は威圧感と美しささえあります。 見所としては居館からの登城道の各門の石垣で、特に畳橋から大手門・三重櫓の付近、また、本丸周辺では二の丸と三の丸付近の六段の石垣、本丸東口門・長局埋門周辺石垣、本丸北西側の埋門石垣などでしょうか。埋門石垣は修復を何度かしているため野面積み・打込ハギ・切り込みハギの三世代の石垣が混在しています。外側は野面積みであり埋門の中は打込ハギ・切り込みハギが左右に見られます。 南側の南郭群(車道沿いから入れます)には中世岩村城の遺構が残ります。堀切土橋などが残ります。本丸北側の二の丸は残念ながら草ぼうぼうの状態です。 居館跡は太鼓櫓や門が復元ざれ、居館跡の石垣がわずかに残ります。 岩村の町は重要伝統的建物群保存地区に選定されており、江戸の情緒が残ります。 2016年訪城の際は、山の斜面の木々が間伐、伐採され、眺望がよくなってました。2021年5月訪城時には「なんじゃもんじゃの木」が咲いていました。この木が岩村城にあるとは知らなかったですわ。 土岐門(二の門)が移築された徳祥寺ですが、門の横にあった建物が撤去され、門が独立した形で建ってました。寺も無住になったようです。 |
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歴史 | |
源頼朝の家臣の加藤景廉が文治元年(1185年)に築いたとされますが伝承に域のようです。いずれにしても加藤氏がこの地の地頭職につき、景廉の子の景朝が遠山氏を名乗りました。永正年間(1504〜1520年)の遠山頼景の時には中世岩村城は存在したとされます。元亀三年(1572年)に遠山景任が急死した後、織田信長の子の坊丸が養子として継ぎました。この時、景任の妻(織田信長の叔母)が後見したので、女城主の城とも言われます。天正元年(1573年)、武田氏の重臣秋山信友が岩村城を攻め景任未亡人を妻に向かえ和議が成立し岩村城は武田方の城となります。天正三年(1575年)に織田信長の嫡男信忠が岩村城を攻めて攻略し、川尻秀隆が岩村城城主となります。川尻氏が甲斐に転封後、団忠正・田丸直昌が城主となりますが、川尻氏の後は森蘭丸から三代森氏が城主という異説もあります。関が原の戦いで西軍についた田丸氏に変わり、江戸期岩村城は慶長六年(1601年)より大給松平氏が二代、寛永十五年(1638年)より丹羽氏が五代続き、元禄十五年(1702年)より再び大給松平氏が入り明治まで続きました。 |
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