伊勢/ 津城



ファイルNo1083

藤堂家の本城

                            

@ つじょう 
  別名 安濃津城 

A住所:津市丸の内
B目標地点:お城公園
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・市街地

F遺構等:郭・石垣・堀・模擬櫓
G時代/人物:戦国期〜江戸期/細野氏〜藤堂氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2002年04月・2018年02月

  

道案内  

伊勢自動車道の津インタを下り、県道42号線を津市中心部に進みます。4.2km先で右折し、右手が市役所、左手がお城公園です。
 
訪城備忘録

本丸・天守台と西の丸(現在は完全に繋がっていますが)の石垣と北側、西側に内堀の一部が残っています。また、丑寅櫓続多聞櫓跡の三重の模擬櫓が建てられています。今治城・篠山城・名古屋城などに似た縄張りで、高虎らしい城ちゅう感じですね。

歴史

津城は元々は安濃津城と呼ばれ、永禄年間(1558〜69年)に長野氏の一族の細野藤敦が城を構えたことに始まります。永禄十二年(1568年)には長野氏の養子となっていた織田信包が入り城郭を大改修し、天正八年(1580年)には天守を完成させたとされます。文禄三年(1594年)に信包は豊臣秀吉の命により丹波に移封され、富田知高が五万五千石にて入りました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いの前哨戦で、東軍に付いた富田信高(知高の子)は西軍に攻められて開城しました。慶長十三年(1608年)には富田氏が伊予に移封、藤堂高虎が伊勢・伊賀二十二万石で入りました。高虎は城を大改修し、現在の縄張りとなりました。藤堂藩は大坂の陣など功で三十二万三千石の石高となり、以後、明治維新まで続きました。


藤堂高虎

弘治二年(1556年)に近江藤堂村(現:甲良町在士)に藤堂虎高の次男として生まれました。幼名は与吉。通称・与右衛門 最初に浅井長政に仕え、その後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主を変え、天正四年(1576年)には羽柴(豊臣)秀長に仕えました。天正十三年(1585年)には紀州・四国攻めの戦功として猿岡城(粉河城)一万石与えられ、九州平定の功で二万石に加増されました。天正十九年(1591年)に秀長が死去し、文禄四年(1595年)に秀長の養子の秀保が死んで大和郡山豊臣家が絶家となると豊臣秀吉の直臣となり、伊予板島(宇和島)に七万石で入りました。城を改修し板島丸串城を宇和島城と改称しました。慶長三年(1598年)に秀吉が死去すると 徳川家康に接近し、慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは東軍に与し、戦後には伊予半国二十万石に加増され、伊予今治城を築きました。慶長十三年(1608年)には伊勢・伊賀二十二万石に加増移封となり、津城に入りました。高虎の築城術は高く評価され、自らの居城、支城以外に、丹波篠山城膳所城二条城丹波亀山城江戸城駿府城名古屋城淀城徳川大坂城などの縄張り・築城に関わりました。慶長十九年(1614年)からの大坂の陣の功により三十二万石に加増されました。高虎は外様大名でありながら徳川家康に信用され、譜代の大名以上の待遇であったようです。寛永七年(1630年)に死去、享年75歳でした。

天守台石垣 
  
復興櫓(本丸丑寅櫓続多聞櫓跡の位置)
入徳門(藩校の正門)       石垣   
  

近くの城・関連の城:長野城 細野城
藤堂高虎が関わった城:在士館 赤木城 出石城 猿岡山城 郡山城 宇和島城 大洲城 今治城 
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