藤堂高虎
弘治二年(1556年)に近江藤堂村(現:甲良町在士)に藤堂虎高の次男として生まれました。幼名は与吉。通称・与右衛門 最初に浅井長政に仕え、その後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主を変え、天正四年(1576年)には羽柴(豊臣)秀長に仕えました。天正十三年(1585年)には紀州・四国攻めの戦功として猿岡城(粉河城)一万石与えられ、九州平定の功で二万石に加増されました。天正十九年(1591年)に秀長が死去し、文禄四年(1595年)に秀長の養子の秀保が死んで大和郡山豊臣家が絶家となると豊臣秀吉の直臣となり、伊予板島(宇和島)に七万石で入りました。城を改修し板島丸串城を宇和島城と改称しました。慶長三年(1598年)に秀吉が死去すると 徳川家康に接近し、慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは東軍に与し、戦後には伊予半国二十万石に加増され、伊予今治城を築きました。慶長十三年(1608年)には伊勢・伊賀二十二万石に加増移封となり、津城に入りました。高虎の築城術は高く評価され、自らの居城、支城以外に、丹波篠山城、膳所城、二条城、丹波亀山城、江戸城、駿府城、名古屋城、淀城、徳川大坂城などの縄張り・築城に関わりました。慶長十九年(1614年)からの大坂の陣の功により三十二万石に加増されました。高虎は外様大名でありながら徳川家康に信用され、譜代の大名以上の待遇であったようです。寛永七年(1630年)に死去、享年75歳でした。
|