近江 | 膳所城 |
ファイルNo0665 |
@ ぜぜじょう |
道案内 | ||||
国道1号線を草津方面から来ると瀬田川大橋を渡り西詰めの信号で右折し県道102号線を浜大津方面に進みます。2Km先本丸町の信号右側が膳所公園です。駐車場は左側にあります。なお、近江大橋の手前になります。 |
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訪城備忘録 | ||||
城跡の本丸が公園化されており、遺構としてはほぼ残っておらず、石垣もほぼ後世の模擬石垣のようです。ただ、門などが市内外に移築されています。 移築建物・門としては、城跡近くの膳所神社(大津市膳所1丁目14)には神社の表門として「北大手門<重文>」、城内のどの門かは不明のものが2門あります。若宮八幡宮(大津市杉浦)には「本丸犬走門」、御霊神社(大津市鳥居川町には「本丸黒門」、篠津神社(大津市中庄1丁目14)には「北大手門<重文>」、近津尾神社(大津市国分二丁目)に「米倉門」、鞭崎八幡宮(草津市矢橋町)には「南大手門<重文>」、新宮神社(草津市野路6丁目14)には「二の丸水門」、栗東市岡には旧長徳寺の山門で「大手門桝形一ノ門」とされる門が移築されています。櫓としては相当に改変されていますが芭蕉会館(大津市秋葉台35)に「本丸東二重隅櫓」が、六体地蔵堂(大津市昭和町4)に「お椀蔵」が移築されたものがあります。(資料より) なお、草津市木川町の天神社の門も「天神社の説明書き」には移築門と書かれてました。草津宿本陣も膳所城の瓦ケ浜御殿の一部が移築ともされていましたが、本陣は幕末頃の建築物で移築ではないようです。 2019年07月 泉大津市松之浜2−18に「瀬田口総門」である高麗門が移築されています。これは当地の細見氏が昭和九年(1934年)に室戸台風で倒壊したこの門を買い取り移築したものですが、2018年の台風で倒壊し、2019年時点ではそのままになってます。 2021年07月・08月・09月 膳所城を近江大橋から撮ってないなぁと思い寄ってみました。また、移築門を撮り直ししてきました。瀬田口総門には番所が民家として残っていたようですが、2006年に取り壊されたようで、現在はマンションが建ってます。さらに、城内の移築城門の他に膳所藩の武家屋敷の門を膳所の六門と呼び、その内現存の三門も追加しました。そのうち響忍寺は家老村松氏の屋敷に移転したものであり、現存長屋門は山門としてそのまま残されたもののようです。 瀬田口総門の北側にある本多神社は膳所藩主本多氏の瓦ケ浜御殿があった場所です。現在は石碑のみという感じですが、御殿の池泉回遊式庭園の一部も残っているという感じです。草津市の新宮神社(二の丸水門)の近くにある願林寺(草津市野路5丁目6)の山門は膳所城の移築と言う伝承もあるようです。長屋門であり、膳所城内の門というより、武家屋敷の門のように感じます。09月には遺構、移築門とは関係無しに膳所の町を歩いて見ました。古い土塀のお宅など、細い路地ですが、大きな佇まいの個人宅があったりします。大津市生涯学習センターには銅板で作られた膳所城のジオラマが展示されています。このジオラマは築城初期の姿であり、寛文の地震で膳所城は本丸と二の丸の間が埋められて合わせて本丸となり、三の丸が二の丸となりました。和田神社の神門は膳所藩藩校の遵義堂(じゅんぎどう)の表門が移築され、境内のイチョウの木は樹齢600年以上で、石田三成が京都に護送の際、このイチョウの木に縛られて休息したという逸話があるそうです。本殿は鎌倉期の建築物で重文です。縁心寺には戸田一西の墓、本多氏藩主の墓があります。安昌寺には幕末の尊王攘夷派の11名が粛清され、その墓があります。今は市街化し、城下町の面影は少ないですが、路地や寺・神社には江戸期の香りがします。 |
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慶長六年(1601年)に徳川家康の命で膳所城が築城されました。縄張りは藤堂高虎が行ったとされます。大津城の石垣など多く転用されたようです。(大津城は山が近く大砲で攻撃しやすいため膳所城の築城になったと言われます。) 初代城主には戸田一西が三万石で入りました。その後、戸田氏鉄ー本多康俊ー菅沼定芳ー石川忠総ー石川憲之と城主は変り、慶安四年(1651年)に再び本多氏(伊奈城本多氏)が入り六万石で明治まで続きました。現在の膳所城は寛文二年(1662年)の地震修復で大きく改修され、旧の本丸と二の丸がひとつになった頃のものです。 |
移築門 |
幻住庵:近津尾神社の上にあります。松尾芭蕉が晩年4ケ月ほど過ごした庵です。建物は平成三年(1991年)に模擬復元で建てられたものです。 |
膳所の六門(現存三門) 膳所城武家屋敷長屋門など |
近くの城・関連の城:大津城 ※