近江/ | 大津城 |
ファイルNo0659 |
@ おおつじょう |
道案内 ←城址碑のある場所 | |||
国道161号と県道18号の交差点大津港口の信号のそば、びわ湖浜大津駅の県道挟んで反対側(琵琶湖側)の歩道橋の下に城址碑があります。 |
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訪城備忘録 | |||
大津城の遺構は地表上には基本的には残っていません。(彦根城の天守は大津城の五層天守を移築し、三層天守に改築したものですが。) びわ湖浜大津駅(旧:はまおおつ駅)から南に300mの商店街の中にある大津祭曳山展示館の裏側の石垣は大津城時代の石垣と言われます。展示館の裏手は段差があり堀跡の斜面と考えられます。展示館におられた方が、この石垣は江戸期に積まれたものらしいと説明していただき、堀跡であるのは確かではないかとのことでした。また、この展示館の裏手上にある駐車場に残る石垣は本物といううわさもあるらしいとのことでした。この駐車場を探しましたがわかりませんでした。浜町口近くに大津城石垣という碑と説明板があります。ここにある植え込みは発掘調査で出た大津城の石を使ったもの?のようですが。尾花川口(現:琵琶湖疎水の取り入れ口)や川口公園(中堀跡)にも説明板が設置してあります。 大津の浜大津は背後に山(長等山)があります。三井寺の観音堂のさらに上に登ると眼下に大津市街地が見えます。慶長五年(1600年)の大津城攻めの際、背後の山から大砲で攻められて落城したため、大津城は攻められやすいという理由で新たに膳所城が築城されたとされますが、三井寺観音堂から眺めるとなるほどって実感します。 国道161号線の中華料理レストランと結婚式場の間にある民家(今はなくなってます)との境に大津城の石垣といううわさの石垣があります。(これも今はコンクリートで固められ見えなくなってます。) 2024年夏、大津歴史博物館で「京極高次展」がありました。 写真は撮影可と表示されたもののみです。 |
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天正十四年(1586年)に豊臣秀吉の命により浅野長政が築城しました。その後、増田長盛、新庄直頼を経て、文禄四年(1594年)に京極高次が六万石で城主となりました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い直前、高次は東軍に属したため、西軍1万5千に攻められ落城しました。慶長六年(1601年)に膳所城が築城され大津城は廃城となりました |
大津城籠城戦 大津城は天正十四年(1586)、豊臣秀吉の命により浅野長政が築城されました。大津城は梯郭式と連郭式の要素のある縄張で、本丸が琵琶湖に突出した形で面し、本丸の南側に奥二の丸があり、奥二の丸から内堀を隔てて二の丸が奥二の丸の三方を囲み、さらに、中堀を隔てて三の丸が二の丸を包み込むように囲んでいました。三の丸の外側には幅のある外堀が三の丸周囲を囲むようにあるという縄張です。坂本城もよく似た縄張であったと言えますし、本丸が琵琶湖に突出しているという点では坂本城、膳所城も同様です。従来、琵琶湖水運は都である京都へ物資を運ぶ最短の港として坂本が重宝されました。その理由もあり、明智光秀の城は坂本城であったわけです。しかし、豊臣秀吉が天正十三年(1585)までに大坂城を完成させ、物資は瀬田川(淀川)経由、逢坂経由で大坂に運ばれることが重要となりました。それには琵琶湖の港としては大津でした。その流れから、坂本を廃して大津に築城されたと考えられます。 |
「京極高次展」 |