近江 園城寺
<三井寺>



ファイルNo1407

頻繁に陣所として利用された近江の古刹

       仁王門     

@ おんじょうじ <みいでら>
  別名 

A住所:大津市園城寺町 
B目標地点:
C形式:平山城  D比高:40m 
E現況:寺

F遺構等:寺院建築建物 
G時代/人物: −−期/−−氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  −−分


J撮影・訪問時期:2006年04月・2012年06月 
            2018年04月・2021年07月 他

  

道案内  

国道1号線から来た場合、国道161号線の大津港口の信号(浜大津駅前)の先の観音寺の信号を左折し600m先です。観音寺の信号は右折できませんので、堅田方面から来た場合は大津港口の信号で右折し、次の信号で右折、観音寺西の信号で左折します。
 
訪城備忘録

多くの武将が陣所として利用したので、城郭の中には入りますが、城として まじまじ見たことはなかったですが、やっぱりここは寺です^^V しかしながら、観音堂から大津港を見ると眼下だな。大津城があった当時は頭上から攻撃できたと想像できますね。膳所城に移転したというのもよく判るです。 また、におの浜にある義仲寺には木曽義仲と松尾芭蕉の墓があります。さらに、三井寺の北側、北院と呼ばれた区域(大津市役所の裏手)に源新羅三郎義光の墓があります。 

三井寺山門の仁王門:この門は宝徳四年(1452年)に滋賀県石部町(現:湖南市)の常楽寺に建てられたもので、のちに伏見城に移され、さらに慶長六年(1601年)に徳川家康によって三井寺に寄進されたもの。見方によっては秀吉伏見城の遺構のひとつ・・・かな。
金堂:現在の建物は慶長四年に豊臣秀吉の夫人の北政所(おね/ この時は高台院かな)が建てさせたものだそうです。金堂の北側にあり光孝院は足利義材や織田信長が陣所に利用しています。

三井寺は桜・紅葉の名所です。2018年は桜を見に行きました。

歴史

天台寺門宗(旧:天台宗寺門派)の総本山。 弘文天皇の皇子の大友与多王によって建立されました。天武天皇より「園城」の勅額を賜り、三井寺と呼ばれるのは、天智、天武、持頭天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井<みい>の寺」と呼ばれたことからです。平安時代以降、同じ天台宗の比叡山延暦寺(山門派)との抗争が続き、何度か焼失しています。文禄四年(1595年)、豊臣秀吉に突然に闕所(けっしょ)を命じられ。事実上廃寺となり、寺にあった建物は移築、取り壊しされました。豊臣秀吉の死去直前の慶長三年(1598年)に再興が認められ、翌慶長四年に豊臣秀吉の正室のおね(北政所・高台院)が寄進し建てられました。

金堂 
三井寺の晩鐘
観音堂
  
仁王門     石垣
  
琵琶湖疎水の桜
金堂と桜
金堂
金堂前の桜
三重塔と桜
唐院四脚門
勧学院
唐院への道の桜
観音堂
観音堂
仁王門と桜
義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲寺             木曽義仲の墓             松尾芭蕉の墓
新羅三郎義光元服の地と墓所 
場所: 国道161号線で浜大津から堅田方面に向かい、左手の皇子山陸上競技場の山沿い大津市役所前の道を別所駅から200m先で左折し、さらに200m先で左折、20m先で右折したところが新羅善神堂です。墓所は、国道161号線尾花川北の信号で左折し、皇子山公園駅で左折し皇子山公園沿いに進み、途中で道は左折になります。600mほど進むと皇子が丘公園弓道場が右手にあり、左手に駐車場があります。この弓道場の手前に法明院に向かう小道があります。東海自然歩道になっています。あまり整備のされていない道を400mほど進み、右手階段を登ったところが新羅三郎義光の墓所です。
歴史: 源頼義の子の義光が元服した場所が新羅善神堂とされます。兄には八幡太郎義家、賀茂二郎義綱がいます。義光は弓の名手であり、後三年の役(1083〜87<寛治元年>)では兄義家を助け奥州に出向き、清原氏の乱を治めたとされます。1127年<大治二年>に没したとされます。
   新羅善神堂            新羅(源)三郎義光の墓

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