近江/ 坂本城



ファイルNo0655

明智光秀の水城として有名だが、遺構は地下と琵琶湖の湖底に。

                琵琶湖の湖底の石垣 2000年撮影     

@ さかもとじょう 
  別名 
A住所: 大津市下坂本3丁目 
B目標地点:坂本城跡公園・
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・宅地・琵琶湖湖底

F遺構等:石垣・移築城門(来迎寺)
     碑(東南寺)

G時代/人物: 戦国期/明智氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2000年09月・2016年07月
・2018年12月・2020年04月・2021年11月
 2023年12月・2024年02月 他
(2005年03月・2017年02月・2021年01月)

2000年に姿を現した琵琶湖湖底に沈む坂本城石垣(根石列)

  

道案内 ←城跡公園そば、本丸石垣が沈んでいる場所

浜大津より県道558号線(旧国道161号線)を堅田方面に進み7.5Km先、国道沿いの城址公園があります。(立専寺の北東、東南寺の西が城跡公園です。) 城跡公園の北側が本丸、東南寺から西が二の丸、酒井神社付近は三の丸になります。
 
訪城備忘録

琵琶湖に浮かぶ明智光秀の居城だった坂本城の遺構はほとんど残りません。(移築門が残りますが。) 今は国道161号線沿いの城跡公園に船着場の石垣が残りますが、坂本城の遺構ではないようです。しかし、城跡公園より北側100mのところのキー○○○研修所(2021年時点ではキー〇〇〇の施設ではなくなったようです。)のヨット船着き場下から、2000年に6年ぶりの琵琶湖渇水で本丸石垣(根石)が湖底より顔を出しました。(琵琶湖が−50cm渇水すると現れます。) 6年前より石垣がみすぼらしく感じる(前回見たときは一部二段で石垣が残っていた記憶があります。)のは、破壊が進んでしまったためかもしれません。 

二の丸域にあたる東南寺前、旧の街道沿いに城址碑があります。この街道は二の丸堀沿いになるようです。 その西側が三の丸のようです。移築門としては来迎寺の山門があります。西教寺の総門も移築門ですが現在の門は再建との事です。

2024年02月、三の丸の外堀の一部の石垣と考えられる石垣が宅地造成地から発見され、現説がありました。この石垣は長さ30mくらいで、これだけまとまった石垣が発見されたのは初めてではないだろうか。本丸からは約300m離れていて、従来の推定範囲からすると約100m内側に入った地点になります。

【訪城記録】
2018年12月
琵琶湖の水位は1994年でー120cm、2000年でー100cmくらいで石垣が湖底から出てきていたので、そのくらい渇水しないと本丸石垣は見られないんだと思ってたんですが、本日はー54cm。岸に対して平行に横に並ぶ石垣(根石)はまだ水の下でしたが、縦に並んだ石列(根石)が顔を出していました。岸に近い桟橋の下付近の大石は石垣の残骸なのか?どうやったやろ。さらに、石垣が積んである端のところ、積んだのは後世やろうけど石は坂本城のものやろか?? いずれにしても、−50cm前後で石垣が見られる事がわかったんは収穫^^ その後、12月だけで3回も寄ってもた^^; ヨット桟橋、もうボロボロになってます。^^;

2020年04月
琵琶湖の水位は高く石垣(根石)列は見られませんでしたが、畑地の小道に案内標識と琵琶湖の波打ち際に説明板(キー〇〇〇の施設内にも説明板が設置してあり、土日は開放されているようです。)が設置してありました。また、2018年にはほぼ倒壊していたヨット桟橋が修復されてました。
2021年11月
琵琶湖の水位が2018年以来の水位が大幅に下がって また石垣(根石)が出てきました。訪れた日はー62cm、その次はー67cmでしたが、縦列の石列の一部が完全に陸地になっていて その下の胴木が露出してました。説明板は撤去されていました。何故に?。2018年頃から見てると横列の石垣(根石)が2000年当時に比べるてもどんどん少なくなってます。縦列もやはり少なくなっているんでしょう。
国道挟んで反対側の〇田さん宅に「明智塚」というものがあり、説明板も設置してあります。 説明板によれば、「坂本城が落城した際、光秀所有の名刀脇差の郷義弘と宝物が埋められた場所、明智一族の墓所の言い伝えがある」との事。真偽は??・・・。
2023年12月
琵琶湖の水位がー72cmになってました。(最大ー78cmまで下がったようです。) 根石の横列まで陸地になってましたが、水草が覆いかぶさってました。案内標識も字が消えて読めません。12月二度目の訪城は、夜明け前、城跡から朝日を見ました。この日、桟橋の反対側をよくよく見ていると木杭の列がある事に初めて気づきました。^; 何年も通っているのなんともお粗末な観察力・・・<自分>。^^;
2024年02月 三の丸外堀石垣発掘現説
外堀の石垣と推定される石垣が長さ約30mほど発見され現説がありました。発見された石垣は高さ1mほどで、堀(水堀と推定される)もそう深くないとの事でした。石垣の高さはあと1,2段は積まれていたのではないかと推測されるようです。今回の石垣の堀の反対側の石垣が出てないので堀の幅はわかっていませんが、今回で8mほどの幅のようで、推測ですが12mほどあったのではとの事でした。堀には小さな船着き場が確認され小舟が着けられたようです。以前、この場所から西側の地点での発掘では城郭遺構は発見されず町家の遺構だったようです。つまりは、今回の石垣が城の外側端と言えるのではとの事です。外堀石垣の内側に当たる位置から建物の礎石、井戸が出てきています。これは三の丸内の家臣屋敷跡と思われます。 この外堀石垣には胴木は無い石垣で裏込め石も少ないようです。それとは別に石積み遺構と案内板が立っている箇所(小さな舟入のようです。)の石垣には胴木も見えますし、木杭も立ってます。裏込石も多いように感じます。時代的には外堀石垣とはやや違う(新しい)時に構築されたもののように見えます。 しかしなぁ、この外堀石垣、高さ1m強の堀、12mくらい幅があったとしても・・・あまりに低くない・・・?

坂本の史跡など  
 琵琶湖湖底に沈んでいる本丸石垣(根石) no1  no2  
 三の丸外堀石垣  周囲は狭い住宅地です。車で現地へ行くのは迷惑になります。
 西教寺: 総門(坂本城移築門現在の門は再建) 明智一族の墓 客殿(伏見城移築建物)など 
 坂本の町の穴太積み  慈眼堂(天海大僧正の廟) 滋賀院門跡など 
 來迎寺: 山門(坂本城移築門) 森可成の墓  
 盛安寺: 十一面観音立像 明智光秀の位牌と供養塔 客殿(伏見城の資材再活用) 
 日吉大社(八王子砦)  (駐車場)
 旧竹林院 インスタ映えするお寺  (駐車場)
 坂本中心部の観光駐車場(無料)  
東南寺前の城址碑
本丸跡の碑
歴史

明智光秀は元亀二年(1572年)に坂本城を築城を開始し翌年完成させました。琵琶湖に浮かぶ水城で美しい城であったようです。天正十年(1582年)に光秀が本能寺で織田信長を討ち、山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に破れ、京都山科の小栗栖で絶命した後、秀吉軍に攻められた坂本城は、明智光秀の妻、明智秀満らは自害し城は炎上落城しました。その後丹羽長秀が領有しますが、天正十四年(1586年)に秀吉の命で浅野長政が大津城を築城し坂本城は完全に廃城となりました。

坂本城追加写真・本丸石垣の写真ページへ☆☆

三の丸外堀石垣現地説明会
本丸石垣根石 2021年
本丸石垣根石と朝焼け 2023年A
三の丸外堀石垣 (発掘現場・現説 2024/02)
来迎寺の移築門 2024/02 
来迎寺の移築門(寺内から) 
西教寺の移築門(現在の門は再建)
2021年 石垣(根石)の列
2021年 石列(根石)下の胴木
石列下胴木      2021年11月   湖底の瓦の破片?
   石垣と胴木         2000年撮影   向こうの石垣下に胴木が見えます
本丸石垣 2000年撮影
本丸石垣 2000年撮影
夜明け前の景色 2023年12月A
案内標識          撤去された説明板
撤去された説明板の内容
城跡公園説明板より
石垣の位置 地理院地図より
2018年・2021年/湖底から出できた石垣  
2021年
2021年
桟橋岸下の石(石垣の残骸だろうか?) 2018年
浜辺の端の石垣  2018年      桟橋下
桟橋下石列2021年        明智塚
坂本城追加写真・本丸石垣の写真ページへ☆☆

三の丸外堀石垣現地説明会
西教寺    
総門(坂本城移築門)<現在の門は再建> 
唐門
唐門
客殿(秀吉伏見城移築建物)
本堂       −
西教寺の明智光秀一族の墓と煕子の墓  
盛安寺   
盛安寺
明智光秀御位牌(右側中央寄りの大きめの御位牌)
十一面観音立像
盛安寺客殿(伏見城資材を再利用されている)
竹林院
坂本城追加写真・本丸石垣の写真ページへ☆☆

三の丸外堀石垣現地説明会


近くの城・関連の城: 大津城 宇佐山城 八王子砦(日吉大社)