山城/ | 二条城 |
ファイルNo1213 |
国宝の二の丸御殿を始め、22の重要文化財の建物が残る
@ にじょうじょう |
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【道案内】 名神高速京都南インタを下り、国道1号線を京都中心部へ進みます。3Km先の京阪国道口の信号で右折(左折は国道171号線)し、東寺前を過ぎ800m先の九条油小路の信号で左折し堀川通りに入ります。JRのガードをくぐり西本願寺前を通過し3Km先の堀川五条で国道1号線は右折ですがそのまま堀川通り(県道38号線)を直進します。3.5Km先の左手が二条城です。東大手門横に大きな駐車場があります。 【訪城備忘録】 御殿建築は川越城、掛川城、高知城など全国的にも残っているもの自体少ないですが、二条城の二の丸御殿(国宝)は豪華さからすると別格ですね。この御殿に匹敵するものとしては近くの西本願寺の建物(飛雲閣・書院・唐門など(/京都新城の移築遺構?)<非公開>もこの御殿建築に近いものがあります。二の丸庭園は小堀遠州作と言われています。本丸御殿は明治に御所(旧桂宮)より移築されたもので、通常は非公開であですが、年に何度かは公開されているようです。なお、南門は大正天皇のご即位の際に作られた門ですので、江戸期にはありません。二条城の重要文化財の建物は22棟で、東大手門、東南隅櫓、東南隅櫓北多門塀、二の丸築地塀、二の丸唐門、二の丸台所、二の丸御清所、本丸御殿/玄関・御書院・御常御殿・台所と雁ノ間、鳴子門、桃山門、本丸櫓門(本丸東櫓門)、南中仕切門、北中仕切門、西北土蔵<北土蔵>、西南土蔵<南土蔵>、西南隅櫓、西門、北大手門、土蔵米蔵<東土蔵>となります。 さらに、二条古城の石垣が地下鉄の建設で発見され、西端に移築復元されています。 いずれにしても、寛永の拡張、大改修で本丸の西半分から西は拡張され、本丸の内掘、石垣、天守台が作られ、天守台には完成された算木積を見ることができます。現在の二の丸の石垣も相当積み直され、ほとんどが切り込み接の石垣であり、そのため、二の丸東面(東大手門側)の外堀はあらたな石垣を積むために慶長の時の堀幅が狭くなったとの事です。慶長の石垣は外堀の外側一部に残るのみとの事です。この外堀の石垣は野面積みと言う事らしい。また、天守は落雷で焼失していますが、慶長期の天守は望楼型の天守で、それを寛永の改修で取り壊し、寛永の天守は層塔型の天守であったようです。 三渓園の聴秋閣は元和九年(1623年)に徳川家光が上洛の際に二条城に建てられたもので、その後、春日局に賜り江戸稲葉家に移築され、大正十一年(1922年)に三渓園に移築されたものです。 2020年06月と08月に再訪しました。世界的な感染症で外国人客がいませんので、唐門などで人が切れる時があるため、写真を撮るのはありがたいです。08月は夜間ライトアップとプレジェクションマッピングのイベントがあり、見学してきました。本丸東面石垣に投影されてました。 2021年12月、日頃は非公開の西門枡形(西門を内側から見る)の特別公開がありましたので、見学してきました。この門から徳川慶喜は大坂城に向かったとされます。門番が小刀(脇差)なんかで刻んだんでしょうか? 葵の紋などが落書き(彫刻)されてます。 暇だった?^^; 現在、西門枡形は石材置き場と化して大石が積み上げられゴロゴロしてますので、一般公開がしにくいようです。 【歴史】 慶長七年(1602年)徳川家康の命で板倉勝重が普請し、翌年完成しました。家康の征夷大将軍の拝賀、二代秀忠の将軍宣下が行われました。その後も城は拡張され三代将軍家光が寛永三年(1626年)に後水尾天皇が行幸された際には五層の天守を備えていました。その後将軍の上洛は途絶えました。寛延三年(1750年)に落雷で天守は焼失しました。文久三年(1863年)に十四代将軍家茂が入城し攘夷を決行、慶応三年(1867年)には十五代将軍慶喜がこの城にて大政奉還を決しています。なお、明治27年に本丸に桂宮御殿が移築されています。 <現地案内板より> |
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