丹波/ 篠山城



ファイルNo1573

天下普請の巨大な平城

              本丸石垣    

@ ささやまじょう 
  別名 桐ケ城 
A住所:丹波篠山市北新町 
   旧:多紀郡篠山町→篠山市

B目標地点: 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・市街地 

F遺構等:郭・石垣・水堀・復元大書院 
G時代/人物:江戸期/徳川氏(松平氏)
H満足度: 凸凸+

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  三の丸駐車場から10分

J撮影・訪問時期:2000年05月・2011年09月
2014年07月・2015年10月・2017年09月
2017年11月 2020年02月・10月
2023年09月 他

  

道案内 

舞鶴若狭自動車道の丹南篠山口インタで下り、県道94号線に左折し篠山市中心部に進みます。4Km先の尾根川北詰の信号で左折します。500m先で川を渡り、県道77号線との交差点、南新町の信号を直進します。550m先で左折し三の丸駐車場を利用します。 

京都方面から
京都方面より京都縦貫自動車道の亀岡インタで下り、国道372号線を湯の花温泉経由で進みインタから29Km先の信号で斜め右へ入り県道77号線を進みます。1.7Km先の京口橋で川を渡ったところの信号を左折、700m先の南新町の信号を右折です。さらには京都縦貫自動車道の園部インタで下り、国道477号線で西に進み、途中で国道372号線に合流します。この国道372号線はデカンショ街道というらしいです。
 
訪城備忘録

複雑な縄張りの城では無く、大きな方形の威風堂々とした石垣の城です。所謂、聚楽第型縄張りでしょうかね。本丸、二の丸を巡る内堀、三の丸の外を巡る外堀の水堀の広さ、主要部の石垣は非常に高く、また、表門側二の丸北面石垣、表門から大書院までの石垣、二の丸南面埋め門外側などに刻紋(刻印)が多くあります。これらは、江戸期初期の天下普請の城の証なんでしょうな。

二の丸・本丸を巡る石垣はそそり立つように垂直で高いものです。 北面石垣は、犬走があり、表門が飛び出した区域を作り、鉄門まで二度の折れを有します。西面石垣は南西端の櫓台まで一直線の高い石垣、南面石垣は、中央に二の丸埋め門、東端に天守台があります。外堀の南側に土の馬出し、北側に馬出痕跡、東側に全国的にめずらしい石垣の角馬出しも残ります。本丸は現在青山神社があり、天守台石垣が残ります。ただ、往時は天守は建てられませんでした。二の丸には木造で再建された二の丸大書院が建っています。また、市内には武家屋敷なども残り、散策によい町です。

篠山市栗栖野地区には3ケ所の残念石(石垣で切り出されたが使わなかった石)が置いてある場所があります。石には刻紋を多く見ることができます。 

城址碑
歴史

徳川家康は大坂豊臣氏・西国大名の押さえとして、慶長十四年(1609年)に子の松平康重を常陸笠間より移封し、天下普請で篠山城の築城を命じました。池田輝政・藤堂高虎が縄張りを担当し、十五ケ国、二十の大名が築城にあたりました。以後、元和五年(1619年)に松平康重は岸和田に移封となり、藤井松平信吉が高崎より入封しました。藤井松平氏が二代、形原松平氏が五代続き、寛延元年(1748年)に丹波亀山より青山忠朝が入封して、青山氏の六代の居城として明治を迎えました。

【訪城記】篠山城の石垣を見倒す城跡巡り備忘録へ

廊下門から表門     表門横石垣
現地案内板より
廊下門から表門
夕日と二の丸大書院
二の丸西側石垣
二の丸南西櫓石垣
算木積みにある刻紋(刻印)<五芒星っぽい。裏鬼門ちゅうことかな>
南面石垣
夕方の南面・東面石垣と天守台
本丸の天守台
天守台から見る八上城
二の丸北面石垣(東側)・廊下橋と表門
本丸石垣
本丸石垣
二の丸北面(西側)石垣
二の丸北面(西側)石垣
二の丸北面(西側)から西面石垣と内堀
廊下橋と表門
説明板・碑・廊下橋・表門
二の丸表門の西側石垣
表門石垣
二の丸北側の西側石垣
二の丸北面石垣(東側)・廊下橋と表門
鉄門((今は模擬冠木門)
二の丸大書院
大書院内部
二の丸大書院
本丸遠景     本丸
埋め門(二の丸から)
埋め門
埋め門
埋め門横石垣刻紋(刻印)
二の丸南面
二の丸・本丸の南面
天守台
二の丸西南角と内堀
二の丸西面石垣
二の丸西面石垣
二の丸西面石垣
二の丸西面石垣
馬出し
北馬出し土塁痕跡
東馬出し
東馬出し
南馬出し
南馬出し
南馬出し
南側外堀
南門
西側外堀(南側から)
西側外堀
西側外堀(北側から)
武家屋敷
武家屋敷

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