篠山には何度も訪れています。私ひとりの時は100%城巡りですが、^^; 子供が小さい時は、家族全員でお弁当をもって、両親が来た時、近所のご家族と・・・現代と過去が同居する町。何故か落ち着く町。そんなんでは篠山の方はお困りになるでしょうが、お金を使わず一日ブラブラできる町。そんな、町が篠山やと思うんですよ。うちの相棒とお袋はこの町で古布を探してましたよ。相棒はタベストリーを、お袋は小さな着物人形を作る材料にするために。その間、私は篠山城をウロウロ。古い写真ファイルにその作品が残っていたので記念に掲載します。
2.篠山城 石垣見倒す城巡り
【歴史】 徳川家康は大坂豊臣氏・西国大名の押さえとして、慶長十四年(1609年)に子の松平康重を常陸笠間より移封し、天下普請で篠山城の築城を命じました。池田輝政・藤堂高虎が縄張りを担当し、十五ケ国、二十の大名が当たりました。以後、元和五年(1619年)に松平康重は岸和田に移封となり、藤井松平信吉が高崎より入封しました。藤井松平氏が二代、形原松平氏が五代続き、寛延元年(1748年)に丹波亀山より青山忠朝が入封して、青山氏の六代の居城として明治を迎えました。 |
篠山城の縄張りは実にシンプルです。 城と言うものは複雑に屈曲する城壁、まっすぐ行けない道というのがイメージですが、ここの城は基本長方形。これは、この城の縄張りを任された藤堂高虎が築いた城の特長と言えるでしょうね。高虎が築いた、今治城、津城、二条城などもそうですが、防衛は高い石垣、幅広い水堀、要所の桝形虎口が特長という事になるんでしょうね。加えて、篠山城には3つの馬出しがあります。北の馬出しはほぼ消滅していますが、東の馬出し、南の馬出しは現存しているのも貴重な遺構です。この馬出しで、外堀から城内に入るための虎口は防御され、容易に敵は攻め込めません。高虎の築城で建物の特長は、天守だと層塔型と呼ばれるスクッと建った天守が特長と言えますが、篠山城は天守台までは築かれましたが天守は建てられませんでした。さらに、石垣に沿って多門櫓を築くのが特長と言えるでしょう。本丸・二の丸への入口となる廊下橋跡そばにある「ありし日の篠山城」という説明板に内堀に沿って巡る石垣上、外堀に沿って巡る土塁上に多門櫓が描かれています。
篠山城は水堀が外堀と内堀があります。大手は北側で、現在、大手門の面影はないです。外堀と内堀に囲まれた部分が三の丸です。内堀の内側にある二の丸、本丸を取り囲んでいます。三の丸から主要部を見上げると高石垣が圧倒し、まるで航空母艦のようです。石垣は打ちこみはぎという様式で、石をある程度加工されたもの積み上げたものです。石垣の角は算木積みと呼ばれる積み方で、長い石を交互に積んでいく積み方です。
大手側から二の丸への入口(虎口)は、往時は廊下橋になっていたようです。これを越えると表門、中之門で構成された桝形を通り、鉄門を通ります。ここは二重桝形で、おまけに坂虎口(坂を登りながらある虎口)であった事で、相当に堅固な虎口です。大手側桝形虎口は外桝形虎口であり、虎口部分が突出した形状です。石垣の下の内堀周囲には犬走りが巡っています。けっこう幅のある犬走りになっています。
明治になり、篠山城の建物は二の丸大書院を除いて取り壊されました。その大書院も1944年に火災で焼失してしまいましたが、2000年に木造で復元され往時の姿が再現されました。この大書院があるところが二の丸で、東側に一段高くなった現在は青山神社となっている所が本丸、本丸の東南角が天守台になります。
二の丸にあった御殿の配置は説明板と敷地に案内表示で示されています。二の丸大書院は久々に入館しましたが、木造の重みのある建物です。篠山城のジオラマがあったり、篠山城の歴史・資料が展示されているとともに、当時の大名御殿の一部を再現されています。現在、本丸御殿の木造復元が何箇所かで行われています。熊本城本丸御殿、名古屋城本丸御殿、佐賀城本丸御殿より早くに木造復元された建物です。
二の丸から南側(搦め手)への出口が埋門です、門を出ると右へ坂道を下りて行きます。往時は下りきった所の内堀に南廊下門がありましたが、今はその面影もありません。ここを過ぎて南門から外に出ると外堀を越えて南馬出しに至ります。三の丸と外堀の間には土塁が巡っていたようで、その上に周囲を多門櫓が巡らされていたようです。外堀は相当に堀幅が広いという印象です。
篠山城は外堀に三か所の虎口があり、すべてに馬出しが作られていたものです。 角馬出しと呼ばれる長方形的に直線でコの字に構築するタイプですね。北側の大手馬出しは現在は消滅し、わずかに土塁の痕跡があるのみです。東側の東門からの東馬出しは石垣作りで、馬出しの内側の石垣は現在無くなっていますが、外側の石垣は現存します。また、南門からの南馬出しは土塁で構築された馬出しで、東馬出しより土塁の高さ、敷地の広さがあるように見えます。
篠山城は天下普請で築城された城です。20ほどの大名が参加し作られたもので、石垣がどこの大名が積んだかが分かるように石垣の石に印があります。これを刻紋と呼びます。相当に薄くはなって判別しにくくなっていますが、けっこうたくさんあるので、これを探すのもおもしろいかもです。ただ、相当にマニアックかも(笑) 天下普請の城と呼ばれる城にはこの刻紋はよく見られます。 もちろん、天下普請でない城にも数は多くないですが刻紋がある城もあります。城郭ファンには刻紋マニアもいるくらいで・・・。
本丸石垣で青山神社の石段右手の石垣にプレートが埋め込んであります。そこには「この隅石垣の復元は、資料、根石が不足なため、正確に積み直しできていません。」と刻まれています。う〜ん、律儀な・・・。これもプライドですかねぇ^^
e) 武家屋敷
篠山城を見てから武家屋敷安間家を見学します。上級武士ではなく、徒士の武士の家です、禄高は12石程度だったようです。茅葺屋根の質素でありながら凛とした感じの建物です。この安間家がある通りは御徒士通りと呼ばれ、今でも10軒程度の武家屋敷が残っています。
この日は晴天であり、夕陽に照らされた篠山城も格別です。二度目の夕陽の篠山城です。外堀に逆さに映された姿も静寂感があって好きです。昼間はたくさんの方が歩いていた外堀沿いも夕方になるとほとんど人がいなくなり、静けさに包まれます。
最後に河原町の妻入商家街にも廻って見ましたが、もう夕暮れで店じまいを始めておいででしたので、ゆっくりはできませんでした。本日のメインは八上城ではありましたが、これからの篠山にはお邪魔します。また、私は城跡を楽しまさせていただきます。今後は少しはグルメという分野も勉強せねばいかんですな。:・・・^^;(笑)
一部 *印の写真は今回の訪問時の写真ではなく、過去に訪れた時の写真を使用しています。ご容赦ください。