「篠山を巡るブロガー旅行記」という企画に応募し、私のページはブログではないですが、
特別枠ちゅう事で認定いただきました。なので、特別ページを作成して訪城記を報告致します。^^V  

自宅を6:30に出発、名神高速道から大山崎ジャンクションで京都縦貫道に入り、亀岡インターで下ります。京都縦貫道が名神高速道に繋がった事により、京都市内中心部を通過しなくてよくなったため、京都から東側に住む人間は、京丹波、丹波篠山方面にはものずごく行きやすくなりましたな。さて、亀岡インターを下りてから国道372号線をひた走り篠山に向います。この道は途中から丹波三街道のひとつで「デカンショ街道」と呼ばれます。 「デカンショ〜ォ、デンカンショ〜ォでぇ、半年ぃ暮らすぅ、ヨイヨイ! あとの半年しゃあぁ 寝て暮らすぅ ヨ〜イ、ヨ〜イ デッカンショ!」、有名な一節ですが、まだまだ続く歌のようです。^^;  元々は、篠山の盆踊り歌だったものが、明治に入って、千葉の館山で、旧制一高の学生に伝えられ、少し、歌詞が変わって、それが東京の学生の間に広く歌われるようになったらしく、その後、篠山にその歌詞で戻ってきて、篠山に再度根付いたと言われるようです。

このデカンショ街道、今回訪れる八上城篠山城に行くまでに間に、街道沿いに多くの城跡が残っています。 籾井氏の城跡である安口城(はだかずじょうと呼びます)、籾井城、波々伯部氏の城跡である淀山城東山城南山城、少し離れて、丹波鬼と呼ばれた荒木氏の城跡である細工所城(荒木城)などです。 地元の有志の方が整備された城跡も多く、戦国の雰囲気を味わう事ができます。

1.八上城  全域攻略の城巡り
     居館・西尾根郭群主要部(山上郭群)南郭群東尾根郭群

【歴史】
八上城は高城山山頂を主郭と山全体が城郭と大規模な城郭です。石見国の土豪であった波多野清秀は管領細川政元から応仁の乱(1467〜77年)の戦功により多紀郡を与えられて、八上の蕪谷に奥谷城(蕪丸)を築城し本拠地としました。その頃、高城山山頂にも見張りの砦程度はあったと考えられますが、永正五年(1508年)に波多野元清が本格的に城を築いたとされます。その後、波多野元秀の時に三好長慶・松永久秀の攻撃を受け、弘治三年(1557年)に城を松永氏に奪われて松永宗勝が城主となりました。永禄九年(1566年)に波多野晴通・秀治が奪還しました。天正三年(1575年)の明智光秀の丹波攻めには当初は味方しましたが、翌年には離反し荻野氏と協力し光秀を撃退しました。しかしながら、天正七年(1579年)に落城し、波多野秀治らは安土城にて殺されました。これに対して波多野氏の人質であった明智光秀の母が磔になったという伝承があります。波多野氏滅亡後、光秀は明智右衛門光忠を城代とし、明智氏滅亡後は丹波亀山城の支城となり、羽柴氏あるいは前田玄以の支城として存続しました。慶長七年(1602年)に玄以の子の前田茂勝が五万石として八上城城主となりましたが、茂勝は慶長十三年(1608年)に改易され、松平康重が入封し篠山城に移ったため廃城となりました。












亀岡から約30km、八上城の麓に到着します。左手の山が城跡ですが、見上げると比高は200mを越える感じ、山全体が大きく、横にも広がって多くの支尾根を持つ山容です。登り口はいくつか(春日神社口、藤木坂口、野々垣口、奥谷口)ありますが、本日は春日神社口から登ります。登る前、国道沿いの右手にイラスト図の城跡案内板、春日神社の入り口に説明板が設置してあります。国道沿いのイラスト図はなにげに八上城の全域の主要郭が記載されていて、案外役に立ちます。私は、この八上城は二度目の登城になりますが、本日のテーマは八上城全域攻略です。麓の集落内の細い道を進みます。なにげに重兵衛茶屋と呼ばれる江戸期の休息所になった建物が現存してたりします。できれば八上城の見学駐車場という看板をどこかで上げて置いてほしいもんだと思いつつ、春日神社の登り口から山へ入ります。八上城は高城山と呼ばれる山の山頂を中心に多くの支尾根に郭を展開した城です。時間は9:30。いざ登城開始です。

(注) 郭名は現地案内標識に書かれた表示名で記載します。


神社を過ぎるとすぐに広い平坦地に出ます。主膳屋敷と言われます。波多野氏が滅亡後、関ヶ原の戦い後に城主となった前田主膳正茂勝の居館と伝わります。

a)西尾根郭群

主膳屋敷の説明板と下の段

主膳屋敷は、大きな平坦地ですが、今はなにもないという感じです。山側に湿地的な箇所があり、池の跡だろうか? この平坦地の上にも平坦地があり、坂虎口状の道があって、その脇にわずかに石垣が残っていますが、当時のものでしょうか? 登城道に戻り、頂上へ向かって登って行きます。まずは鴻の巣と言われる小郭に至ります。説明板には西からの敵に備えた番所と書かれています。見張り台というところでしょうか。今は木立の間からわずかに西側が見渡せる程度です。標識には頂上まで750m、30分とあります。ここから主要部(山上郭群)下までは西尾根郭群ということのようです。山頂に向かって細かく段郭が続いています。

主膳屋敷上の段への坂虎口        虎口横斜面の石垣痕跡
鴻の巣(郭)
下の茶屋丸付近から法光寺城の峰を見る   下の茶屋丸          
中の壇          上の茶屋丸
西尾根郭群の郭のひとつ      西尾根郭群浅い堀切状


鴻の巣からさらに登ると下の茶屋丸〜中の壇〜上の茶屋丸と続きますが、細尾根の郭群で周囲は草木も伸びていて遺構的なものを確認するのはつらい感じです。上の茶屋丸はわりと広く、西尾根郭の中では中心的な郭のようです。頂上まで650m、26分と表記してあります。ここからは、登城道は主要部(山上郭群)下の右衛門丸の石垣までひたすら登ることになりますが、登城道の右手尾根上は多くの段郭が存在します。技巧的な郭はありませんが、戦国中期の様相でしょうか。

b) 主要部(山上郭群)

主要部周辺縄張り図(現地案内板より)
右衛門丸石垣

登城道がやや緩やかになってきましたら突然石垣が現れます。右衛門丸石垣とされます。主要部(山上郭群)は、前田氏時代より、その後の松平氏が篠山城に移る前に改修された跡のようです。石垣を正面に見て左手に入って行くと削平地があり、ここは涼御殿と言うようです。涼御殿の東斜面は上の郭から竪堀状の地形があるけど、これって自然崩落やろか? 石垣の右手が右衛門丸です。右衛門丸を通り南東方向の坂道を登って行くと三の丸、二の丸、本丸となります。右衛門丸の西側を下りて行くと大きな削平地が二段あり、上の段と下の段の連結導線は折れの導線であり、石垣の痕跡のような石もあります。ここの北斜面も竪堀状の地形があり、南尾根郭とを隔てているように見えます。右衛門丸から三段で構成され、主要部(山上郭群)の北西にあり、西尾根郭群、西側段郭、主要部を束ねる箇所に位置し、説明板には城主屋敷とありますが、この城の主要部防衛の要所と言う印象です。








涼御殿         右衛門丸
右衛門丸下の段への通路        右衛門丸下の郭
三の丸



主要部(山上郭群)は右衛門丸、その上に段郭を挟んで上に三の丸があります。、三の丸は右衛門丸の4倍ほどの広さで南北に長い長方形の郭です。土塁が巡っているわけでもなく、ただ広いという印象ですが、木々が無いと主要部としては街道を遠望できそうです。さらに登ると二の丸ですが、二の丸に入る門跡には礎石が残っています。平虎口ですが、坂虎口であり、二の丸張り出しから横矢は仕掛けられるように見えます。二の丸はさらに大きな郭です。本丸を守る郭になり、また、本丸反対側には岡田丸があります。二の丸から本丸を見た場合、右手の本丸下が二の丸より高くなった帯郭があるため進路を塞いでいます。進路は左側を通り、岡田丸に入り反対側に廻り込んで虎口と言うルートになっています。本丸の通路側から岡田丸に面したところには石垣が残ります。本丸への坂虎口側面にも石垣の痕跡が認められます。本丸は二の丸、岡田丸より高く、砲台状になっており、本丸には波多野秀治公の忠魂碑が建ちます。本丸の砲台状側面には石垣は在るものの成形が甘く感じられ、なだらかな斜面になっていたりで、なにか不自然・・・。破城の跡なんやろか?、それとも、改修途中で放棄されたんだろうか?

二の丸門跡と礎石         二の丸と正面は本丸
岡田丸             本丸側面石垣
本丸への虎口スロープ        虎口スロープ側面石垣
  本丸             本丸西下帯郭
本丸からの眺望        本丸から青空
岡田丸から本丸を見る


本丸で一息入れて、後半戦に入ります。 この日は天気も良く、そろそろ紅葉と言う感じでしたねぇ。岡田丸の東下斜面には堀切があるようですが、痛めた足で下りるのは不安だったんであえなく断念。 南の虎口から南の遺構を見学に向かいます。




















c) 南郭群

主要部(山上郭群)の南虎口から下りて行くとまずは蔵屋敷と言われる郭に至ります。この東側には土塁が横たわっていますが、この城で明瞭な土塁はここだけのように感じます。さらに進むと池東番所と言われる細長い郭があり、ここから急斜面を下りると大竪堀と案内板のある箇所に至ります。ここは南尾根郭群の東尾根郭群と主要部を断つ堀切及び両サイドに落ちる竪堀です。ここからさらに下りて行くと谷間に朝路池と言われる石組作りの水源があります。直径は5mほどの池(井戸)です、ここはこの城が落城した際、朝路姫が入水自殺し、財宝も埋めたという伝説のある池です。池から西側の尾根を見上げると堀切がよく見えます。下りてきた東側尾根の堀切もよく見えます。ここは大きな谷間です。南側へ両尾根に挟まれ谷が南に延びています。

蔵屋敷             蔵屋敷土塁
池東番所               大竪堀・堀切を上から
大堀切東側竪堀          大堀切西側竪堀
朝路池
東尾根堀切を見上げる      西尾根堀切を見上げる









西尾根堀切 竪堀から        西尾根の堀切  
西尾根の堀切


西尾根堀切を見上げているとやっぱ近くで見たくなります。(笑) てなわけて、斜面を竪堀沿いに登り、堀切のそばまで行きます。反対側にも竪堀が落ちて、主郭側尾根への高低差は10mくらいはあるでしょうか? ここまでくると堀切の上にある池西番所も見たくなります。斜面をよじ登りますが、意外と楽に上に登れました。池西番所(郭)は思った以上に広い郭で、削平もしっかりしています。段郭は池西番所の上へもあって、切岸を越えて行くと二段ほど小郭が続いています。最後の郭から山上郭へは自然地形のようでしたので、ここは引き返します。







池西番所
池西番所の上の導線        池西番所より上の小郭
南郭群東尾根の斜面段郭切岸
南郭群東尾根上の段郭


朝路池から谷間を南に進んでいきます。両尾根上にも段郭が存在します。谷間を進み、左手方向に進むと野々垣口方面、右手に進むと奥谷口方面のようです。奥谷口方面は西尾根を廻り込んた西斜面に兵站基地のような広い郭があるようですが、こちらは断念します。この広い郭からさらに麓方向に下りて行くと奥谷城(蕪丸)の大堀切に至るようです。また、左手に進むとひたすら谷筋を進んでいくと野々垣口に出るようです。さて、探索は両尾根に挟まれた先端に近い部分で左手の東尾根先端に登ります。斜面に段郭と尾根上にもいくつかの段郭と思われる平場が続きますが、竹、木々が多く、削平も甘く、自然地形に近い感じではあります。尾根上を登って行くと大竪堀の標識の所に戻ってきます。



d)東尾根郭群

はりつけの松     茶屋の壇
茶屋の壇に付属の段郭
登城道から茶屋の壇と標識        茶屋の壇そばの竪堀

大竪堀から主要部(山上郭群)側に少し戻り、東尾根へと進みます。東尾根は明智光秀に攻められた頃に拡張された城域とされているようです。まずは、「はりつけ松の跡」に至ります。ここは明智光秀の母がここで磔にされたという伝承がある場所のようですが、真偽はどうでしょうか? そばにある郭は茶屋の壇と言われる郭です。大きな郭と南側に段郭が付属しています。







  馬駈場          尾根上にある竪堀






茶屋の壇から尾根を進みますと馬駈場と言われる細長い平坦地が続きます。道の左手は、谷に向かって竪堀と思われる地形が4ケ所ほどあります。西尾根郭群とに囲まれる谷側だけに竪堀というのも理解はしにくいな。外側の麓は往時としては沼地とか攻めにくい所であったんだろうか? ここを抜けると芥川丸と言われる郭に至ります。ここは芥川という人間が守ったところらしいです。 ここからの眺望はいいですよ。さらに、少し下りて行くと登城道から斜め右にそれる小道があり、ここを少し登ると西蔵丸という郭があります。東尾根郭群から突出したピークにあり、この東尾根郭群と山麓を結ぶ司令塔的な郭であったようです。この郭の西側へ尾根が続いており、自然地形に近いと感じますが、郭として使用されたでしょうね。 戻って、登城道を下りて行くと藤木坂口に到達します。この麓は昔は城下町があったようです。







尾根上の竪堀       芥丸手前の段差
      芥丸            芥丸から西方向の眺望
    西蔵丸            西蔵丸から見る山頂
西蔵丸から西に延びる尾根
藤木坂口の石碑と説明板       麓から高城山を見る

やっと麓まで下りてきましたが、支城である法光寺城、安明寺砦、及び、八上古城とも言える奥谷城への再訪も考えていたのですが、八上城に4時間くらいいたため、まだ篠山城に行かねばなりませぬ。また、膝を痛めているため、本日のこれ以上の山歩きは断念します。^^; 全域制覇とまでは行きません。支城についてはいずれ登城したいもんです。やはり、八上城は壮大でした。山上郭群は広い郭群、石垣など近世城郭に近いものを感じます。南郭群の谷間から尾根を見上げると時間が止まっている感じがします。西・東の尾根群については小郭の連続であり変化は少ないですが、戦国の城という感じです。

青山歴史館に移築してある伝八上城城門

八上城をありのままに残すもありだと思います。 でも、歴史を伝えるには訪城していただく事も必要かとは思います。 そのためには若干の演出も必要かと思います。行きすぎた整備は必要ありませんし、主要遺構には道の整備、表示の設置などされていますので、けっして文句が言えるものではありません。しかし、土地所有者の方との問題、予算の問題、あるいは、国史跡である事による改変規制などはあるとは想像しますが、冒頭に書きましたが、麓の登り口近くに小さいものでいいんで駐車場の設置はほしいです。また、尾根上の郭群などで麓から見える郭の先端に木の柵を設置するなどして、単調な郭が実際どうであったか想像できるような演出を入れていただくというのはいかがかなぁと感じています。 これは、国史跡である、増山城(富山県)、鎌刃城(滋賀県)にも柵等は設置があり、戦国の雰囲気をだしていますし、少しやり過ぎ感もありますが、高根城(静岡県)、荒砥城(長野県)、真弓山城・田峯城・東条城(愛知県)などでも試みられています。 現時点では八上城の広大さが伝わりにくいように感じます。














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