道案内 ←登り口 |
京都縦貫自動車道の亀山インタで下り、国道372号線を湯の花温泉経由で進みインタから約25Km先、国道372号線と県道54号線との合流地点からさらに国道372号線を約5km進んだ西野々の信号から約3.8km先の信号を右折した先の禅昌寺の左手道路の途中に「籾井城址公園」という標識が左手にあり、そこから登ります。 (あるいは、国道172号線と国道173号線が交わる安田西の信号から国道172号線を東に1km進んだ信号を左折で禅昌寺です。)
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訪城備忘録 |
城跡は大きく分けて、登城道の南郭群、主郭と主郭北側の北郭群、主郭西側の西郭群、及び、主郭東南尾根郭でなっています。 南郭群は何段か段郭があり、主郭下の郭が一番広く明瞭です。南郭群の先端(麓より)には堀切がありますが、浅い状態です。この南郭群に登る前に登城道からいったん低い尾根に登り右手を登って行くと南郭群ですが、この尾根を左に行くと小さな祠があり、ここは出丸と言われています。南郭群を登り切ったら主郭です。一応、城址公園であり、碑は籾井城址公園と刻まれています。北郭群はなだらかな尾根上に4段ほどの段郭があり、わりと広い郭が続き、居住性もありそうな感じです。北端は大きく落ち込み明瞭な堀切で尾根を遮断していますが、中央に土橋がかかり、これも明瞭です。北郭群端を尾根道を降りると本当に薄い堀切があります。さらに、北郭群の根本を主郭東下に降りる小道があり、そこを進むと南郭群とは違う尾根(東南尾根)の郭群に出ます。郭は二段程度ですが、郭群手前と郭群先端に堀切があります。西郭群は急な斜面に三段ほどの郭があり、切岸は高く、二段目と三段目、及び、西端には堀切がありますが、この西端にも堀切が残っています。
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城址碑
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築城時期、築城者ともに不明です。南北朝の頃、籾井氏がこの地に入って徐々に勢力を伸ばしたようです。戦国期には八上城の波多野氏に従い、籾井綱重は波多野秀治の妹と結婚するほどの存在でした。元亀年間(1570〜73年)に綱重は家督を嫡男の綱利に譲り、綱重は二男綱正とともに安口城(はだかすじょう)に移りました。天正四年(1576年)明智光秀の丹波侵攻で、籾井城、安口城は攻撃を受けますが、八上城の波多野秀治、黒井城の黒井直正の援軍とともに明智軍を撃退しました。しかし、翌年の天正五年(1577年)の再侵攻では両城とも落城し籾井氏も滅亡しました。
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