駿河/ | 駿府城 |
ファイルNo1415 |
徳川家康隠居の城として有名
@ すんぷじょう |
道案内 |
東名高速道静岡インタを下り、右折して、インター通りを進みます。3Km先の南安部の信号で右折し、国道1号線に入ります。1.8Km先の静岡駅前の信号で左折し、県道27号線に入り、600m右手一帯が駿府公園です。 |
訪城備忘録・歴史 |
中堀全周と外堀の一部が残り、輪郭式の城郭の面影は残っています。堀の石垣は良く残り、巽櫓と東御門及び坤櫓が復元されています。中心部の本丸は軍隊に使用されていたため内堀は埋め立てられ、天守台は壊されていましたが、本丸内堀の一部掘り起こして復元整備はされています。しかし、ただっ広い公園という感じで少し物足りないですな。 2017年再訪 2016年より天守台の発掘調査が4年計画で進んでいます。2016年は北面、2017年は東面と西面、2018年は南面の発掘がなされ、2019年にはさらに天守台を掘って今川館の遺構を確認するようです。順次、無料の見学コースが設置され、6月から10月は第二、第四の土日には発掘体験もできるようです。 2017年時点では北面と東面の石垣がほぼ出てきてました。一片の長さが60m以上あり、江戸城天守が50m弱から比べるとさらに大きく、天守台としては日本一の大きさではないかと思われます。現在発掘されているのは内堀に沈んでた部分(地上部分は明治に破壊されて消滅してますので)が出てきているため、高さでいうと往時の天守台の1/3程度という事になるようですが、高いところで5mほどの石垣が検出されています。発掘調査後の計画は今のところなにも決まっていないとの事でした。保存展示(廻りに柵をして入れないけど見学できる)だといいのにねぇ。しかし、発掘調査を常時見学できるは斬新な企画ですねぇ。 天守台の大きさが1辺60mもある大きなものであること、発掘される部分が内堀部分の天守台の石垣であり、地表面より下になるため、見学区域と発掘現場が分離しやすいというのもあるんでしょうが、いい企画です。 2018年10月、駿府城の徳川期天守台の内側で秀吉期の石垣が発見されたという新聞発表がありました。訪城した2017年09月にははっきりわかっていなかったようですが、天守台内側に新たな石垣が出てきてるのは認識されてました。徳川大坂城同様、秀吉期をつぶすように作られたという事なんでしょうか。訪城時に新たにでてきた石垣と言われた一番下の写真が秀吉期の石垣ちゅうことのようです。 【歴史】 応永六年(1399年)に駿河守護の今川泰範が今川館を築いた事から始まります。永禄十一年(1568年)に武田氏侵攻にて、今川氏(氏真)は駿府を追われ、今川館も焼失しました。天正十年(1590年)に徳川家康は武田氏勢力(江尻城が拠点)を追い、天正十三年(1585年)に家康は今川館の地に駿府城を築城し、浜松城より移りました。天正十八年(1590年)に家康は関東に移封となり、中村一氏が入りました。関が原の戦い後、慶長六年(1601年)に内藤信成が入り、慶長十一年(1606年)に信成は近江長浜に移封、慶長十年(1605年)に征夷大将軍を秀忠に譲った家康は、慶長十二年(1607年)に大御所として駿府城を居城とし、城は大改修されました。<慶長十四年(1609年)から家康が死んだ元和二年(1615年)までは頼宣が駿府城主として家康に同居。頼宣は元和五年(1619年)に和歌山に移封されています。> 寛永元年(1624年)徳川忠長が入りますが、寛永八年(1631年)に忠長が改易させると、以後、城は天領となり、明治維新まで城代管理となりました。 明治に入り陸軍の駐屯地になったため、内堀は埋められ、天守台は壊され、二の丸・本丸は平らな状態になってました。 |
2017年天守台発掘現場 |
近くの城・関連の城:江戸城