大和/ 大和郡山城



ファイルNo1569

近世の総石垣の城 

                 本丸天守台   

@ やまとこおりやまじょう 
  別名 

A住所:大和郡山市城内町 
B目標地点: 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・公共施設・市街地 

F遺構等:郭・石垣・水堀・復元櫓/門・説明板 
G時代/人物:戦国期/筒井氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  近鉄郡山駅から徒歩20分

J撮影・訪問時期:2002年05月・2014年6月
2017年07月・2018年02月・2021年12月

  
復元追手東隅櫓

【道案内】   数台駐車可能な駐車場

西名阪道の郡山インタを下り、国道24号線を奈良市方面に進みます。約7km先、西九条町南の信号で左折します。約1.4km先、北郡山の信号を直進し県道9号線を進みます。約400m先を左折します。右手に近鉄線沿いの向こうに城跡を見ながら約400m進んだところで右折し近鉄線の踏切を渡り、御鉄門石垣横を過ぎます。約100m先を右折し堀端を進みます。約200m先に数台の駐車場があり、追手門横です。



【訪城備忘録】

奈良県の代表的な城である大和郡山城。交通の便にやや難のある高取城に比べ、気軽に行ける城で、やや微高地の台地に、内堀内の石垣などはほぼ完存し、見応えのある高石垣と空堀・水堀が残ります。天守台には石地蔵や礎石などが転用石として使われ、急な城造りを今に伝えます。よくよく見ると本丸石垣(内堀の東側)をじっくり見るといたるところに転用石が確認できます。櫓や門などが復元されてますので、城の形が実感できるでしょ。近くの永慶寺には門が移築されています。 2017年、天守台の修復・整備が完成しました。 天守台の整備、観光と安全を考えると致し方ないとは理解しますが、整備しすぎ感はありますね。天守台の説明ボランティアの方がおいでになり無料で説明いただけます。パンフも更新され、なかなか充実していました。 2017年4月、続100名城に選ばれた石碑がすでに立ってました。すばやい^^  2021年3月に極楽橋の復元工事が終わり一般公開されました。12月に初めて見に行きました。

【歴史】

天正五年(1577年)に筒井順慶が織田信長より大和一国を認められ、天正八年(1580年)の信長の破却令で筒井城を廃し、郡山城を築いたとされます。天正十二年(1584年)に順慶が死去し、翌年に順慶の子の定次は伊賀に転封となり、豊臣秀長が紀伊・大和・和泉合わせて百万石として郡山城を居城としました。この際に大改修され天守台の石垣に地蔵などの転用石が用いられたと伝わります。天正十九年(1591年)に秀長が死去し、文禄四年(1595年)には秀長の養子の秀保も死去し大和豊臣家は断絶しました。五奉行の増田長盛が二十二万三千石で入封しましたが、関が原の戦いで西軍に加担したとして改易となり、城もいったんは破壊されました。元和元年(1615年)に水野勝成が六万石で入封、元和五年(1619年)には松平忠明が十二万石で入封しました。忠明の後は本多氏が藩主となりましたが、享保九年(1724年)に柳沢吉保の子の吉里が甲府より十五万一千石で入封し、以後、明治維新まで柳沢氏が続きました。

   
  
復元追手門(梅林門)
  
  
本丸内堀石垣(極楽橋から)
本丸石垣と極楽橋
極楽橋と白沢門石垣
本丸西内堀
現地案内板より
天守台からの眺望
  
天守台・本丸(東側から)
天守台・本丸(西側から)
内堀と本丸石垣                天守台
天守台
天守台石垣(さかさ地蔵)
続日本百名城の碑        極楽橋側内堀
竹林橋側内堀
本丸・天守台石垣 2021
本丸石垣   2018     転用石
東隅櫓(復元)
追手向櫓(復元)
極楽橋(復元)と白沢門石垣
極楽橋

近くの城・関連の城:

          

本丸内堀 2002年
本丸内堀 2002年
模擬柳町大門             桜御門石垣
南御門(移築/永慶寺)          御鉄門石垣
東隅櫓                            追手向櫓
追手門
天守台 2014年