丹波 | 丹波亀山城 |
ファイルNo1216 |
明智光秀築城、その後、幕末まで存続したものの明治以降、市街化・荒廃した城跡
@ かめやまじょう |
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【道案内】 京都縦貫自動車道亀岡インタで下り、すぐの信号を右折し国道372号線を進みます。1.8Km先の国道9号線の交差点の加塚の信号を越え亀岡駅に向かいます。亀岡駅前を越えたところの信号で右折し400m先の大本教に入ります。 【訪城備忘録】 現在、亀山城は宗教法人の敷地になっていますが、受付で城跡見学を申し入れすると見学できます。明治維新以後廃城となり、建物は取り壊され石垣も崩れ、あるいは、鉄道の用材に使われたようです。明治以降に荒廃した城跡は、昭和初期に大本教の手で石垣は積み直しされ、宗教法人本部として整備されたものです。ただ、本丸石垣の一番下部の二、三段の一部のみが現存石垣とされます。これは現在の穴太衆専門家が石垣の状態を見て穴太積みの特長が残っている(大石の間に入れる小石のはまり方)との見解のようです。残った理由は荒廃して崩れた石垣ですが、最下部は土に埋もれたりして保存された状態になったのではないかとの事です。しかし、その石垣も光秀時代ではなく、江戸期初期の天下普請の大改修の時のものかもしれませんね。周囲の石垣には矢穴があったり刻紋があったりします。天下普請の記録でしょうか。 本丸の天守台は宗教法人の聖地となってます。また、内堀は万祥池として、中堀は南郷公園として残ります。南郷公園には明智光秀の銅像も建ちます。像の片隅には「明智光秀公築城亀山城址」の城址碑が立ってます。市内などに移築建物、城門が移築され、総構の外堀の名残、土塁の名残がありますが、当然、明智光秀時代のものではなく、江戸期のものとは推測されます。 外堀遺構 市内には外堀・惣構土塁が残る公園があります。 古世親水公園 (亀岡市北古世町1−17) 坂部公園・聖隣寺 (亀岡市東堅町) (坂部公園の前の道はクランク状になっていて城道を残します。また、公園の横の聖隣寺は小早川秀秋が城主時代に建立した寺との事で、さらに、織田信長の墓(供養塔)があります。これは、信長の四男で秀吉に養子となっていた秀勝が丹波亀山城の城主であった時に建立したものとの事です。山門は両サイドの塀に狭間があり、有事には砦になったとされます。昌寿院は丹波亀山城築城前にあった古世城の二の郭跡に建っています。山門に古世城の簡単な説明板があります。) 昌寿院(亀岡市三宅町) 移築建物・門 千代川小学校の校門 (亀岡市千代川町国主ヶ森)新御殿門 保津町第五区集会所 (亀岡市保津町風呂ノ木) 新御殿玄関等 文覚寺 (亀岡市保津町山ノ坊) 城門 大本毘沙門荘 (亀岡市千歳町毘沙門向畑) 家老屋敷長屋門 桂林寺 (亀岡市本梅町平松中野垣内) 城門 延福寺 (亀山市本梅町西加舎垣内) 櫓門 大覚寺明智門・明智陣屋 (京都市右京区嵯峨大沢町) 【歴史】 天正三年(1575年)に織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が丹波攻略の拠点として天正五年(1577年)に築城しました。天守は三層だったと伝えられます。光秀は八上城の波多野氏の抵抗にあいますが、天正七年(1579年)に八上城は落城し丹波を平定しました。天正十年(1582年)に光秀は信長より中国出陣を命じられ亀山城を出陣しましたが、京の本能寺に居た織田信長を討ちました。山崎の合戦で光秀が敗死後、天正十四年(1586年)に羽柴秀勝、文禄二年(1593年)には小早川秀秋が入りました。その後は城代として石田三成、前田玄以などが入城しました。慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦では前田玄以・茂勝は西軍に属しましたが、石田三成の挙兵に従わなかったことで安堵されました。慶長十四年(1609年)に岡部長盛が三万二千石で封じられました。翌年の十五年(1610年)には徳川家康の命により天下普請による大修築が行われました。この時、藤堂高虎が縄張りをし、解体されて保管されていた今治城の天守資材が使用されたとされます。岡部氏の後は(大給)松平氏・菅沼氏・久世氏などが入りましたが、寛延元年(1748年)には(形原)松平信岑が五万石で入城し、以後、八代続いて明治維新を迎え廃城となりました。明治に入り丹波亀山は伊勢亀山との混同を避けるため亀岡と改名されました。現在は宗教法人「大本教」の本部となっています。 |
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移築門・移築建物 |
惣堀遺構 |
古世城 3705 |