丹波/ 周山城



ファイルNo1214


                    西の郭石垣 2001年   

@ しゅうざんじょう 
  別名 

A住所:京都市右京区京北周山町城山
  〜京北下熊田町 
旧:北桑田郡京北町周山
B目標地点: ウッディ京北・市役所京北支所
C形式:山城  D比高:250m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀・説明板 
G時代/人物:戦国期/明智氏
H満足度:
凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  50分

J撮影・訪問時期:2001年08月・2011年04月
           2015年02月・2018年03月
           2019年03月

  

道案内 ←登城口  ←城跡

京都市内から国道162号線(周山街道)で進むか<国道9号線との交差点の五条天神川の信号から約25Km先、あるいは、京都縦貫自動車道の八木東インタより国道9号線の八木の信号で国道477号線に入り、約18Km先国道162号線と交流し次の信号の先、周山街道沿いのJA京北の向かいの道(JA前バス停横の道)より山中に入ります。各所に標識があるため迷う事は無いと思います。JA前より約2Kmの山道です。車は京北支所前のウッディ京北に止めさせてもらった方が無難です。

  慈眼寺 (くろみつ大雄尊<伝:黒墨塗りされた明智光秀座像>)
  篠山藩周山代官所
訪城備忘録

国道162号線周山街道沿いから登ります。案内板がありますので迷いはしませんが、相当にきつい山道を小1時間ほど登ることになります。最初の尾根まで登り右手側に土の郭が尾根先端にあります。(鉄塔が建ってる) そこからさらに斜面を登ると左手に土の郭、右手斜面を登ると東の郭虎口、東の郭です。東の郭にも通信施設が建ってますが、唯一の小さな城址碑が先端にあります。東の郭は虎口が明瞭に石垣が残ります。東の郭の斜面にも残存石垣が確認できます。さらに斜面を登ると二の郭の虎口です。主要部はほぼ総石垣の城で、随所に石垣の痕跡が残ります。見所は本丸東側下桝形門と本丸の土塁、天守台(大櫓)、井戸及び西側の三段の郭と石垣でしょうか。桝形門周辺は時が止まっている感じのする不思議さがありました。年月で崩壊しているというより破城の痕跡を感じます。西側の石垣は野面積みのやや低めの石垣を何段かに分け積み上げているという感じです。

<2011年4月再訪>
十年ぶりに再訪しました。要らぬ整備はしないでそのままに残すというのが いいですね。無粋なケーブル線が無くならばなおいいんですけどね。今回感じたのは、主要部付近は滋賀の鎌刃城になんとなく似ていると感じたことでしょうか。大櫓、石垣の多様、主郭を中心に連結した郭群、織豊城郭として、築城(改修)時期が同じだからかもしれませんね。鎌刃城は築城が古いため尾根に堀切、畝堀が見られますが、周山城は東・南・北の尾根の高低差が相当にあるため、堀、堀切というな遺構は見当たらないです。

<2015年2月再訪>
周山城の西の郭の先、尾根を歩いて行くと堀切・土塁のある土の城があります。土の城は本城より古い城なのかなと思ったりしましたが、本城から尾根が続いて西側が一番弱いためこの方面に出城的に土の城が構築されたようです。急築城であったんでしょうかね。あまり、遺構としては技巧的とは言えない感じです。ただ、本城と土の城の間に離れて2条の堀切があります。特に本城の西の郭を下り切ったところの堀切が深く大きなものです。周山城は基本的に堀切・竪堀などの戦国的なパーツは見当たらないんですが、この西の尾根だけにはこの2条の堀切があります。本城の作りと思想が違う縄張りなんすかね?

<2018年3月再訪>
いつものコースに加え主郭北側の尾根の郭群を下りてみました。とても急斜面で比高で60mほど下りる感じです。その斜面の間に段郭があり、上から見るとぐいっぐいっという感じで段郭が張り出している感じに見えます。郭の切岸の諸所に石垣が残存しています。この方面も相当な石の城であったようです。斜面の一番下は鞍部の平坦地があり、その先に遺構ははっきりしないですが出丸的な高まりがあり、切岸ていったん落ちてまだ鞍部的な平坦地があり、その先は尾根先端の高まりで藪ですが巨石がある見張り台という感じです。

<2019年3月再訪>
この日は専門家に解説していただきながら廻りました。南郭の下斜面の両サイドに登り石垣風の石塁が残る土の盛り上りが斜面に落ちています。これは下の郭と南の郭が間に敵に潜入され分担されないようにするための施設の事です。ただ、風化が進んでいるのか実物を見ても想像できませんでした。 この城の主要部はひとつひとつの郭の側面の石積み、虎口の石垣、石段などが丁寧に築かれ几帳面だとの事でした。これって光秀の性格から来ているのかって事らしいです。今まであまり意識してなかったんですが、登り口から最初に登った尾根にある今は鉄塔が建っている土の郭ですが、細長いだけでなんら変哲もない大きな郭くらいにしか感じてませんでしたが、切岸が綺麗に成形された技術的には高い郭だそうです。もしかしたら、秀吉が拡張をしようとした郭かもしれません。 2018年秋の台風で大木の倒木が数多くありました。遺構の石垣に覆いかぶされ状態に。登城道を崩落し応急修理がされてました。

城址碑
歴史

天正七年(1579年)に明智光秀は宇津頼重を滅ぼし、翌八年には周山城を築いたとされます。周山の名は周の武王にあやかり、地名を変えたとされます。<信長を殷の紂王にたとえたと書いてありますがどうなんでしょうか?> 天正十年(1582年)まで明智光忠が在城し本能寺の変後の明智氏滅亡と共に周山城は廃城と考えられますが、史料には天正十二年(1584年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が徳川家康と組んだ丹波衆を押されるためこの城に入ったという記録があるようです。城代には加藤光泰が入っていたようです。ですから廃城は小牧長久手の戦いの後ではないかと思われ、かつ、破城の処置もされたのではないでしょうか。

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西の郭石垣群<石垣ラインがここでズレている、なぜに?> 2019年撮影
主郭天守(大櫓)
現地標識より
眺望
眺望
眺望
  
東の郭虎口石垣
東の郭虎口から二の郭への斜面
二の郭南虎口
主郭側から二の郭
二の郭北虎口から南虎口側の土塁を見る
主郭天守(大櫓)
主郭から西郭への斜面の石垣・石段
主郭下西の郭上の段@
西の郭下の段石垣と切岸石垣
西の郭下の段から上の段の切岸と石垣
北尾根の切岸と石垣
石垣
東の郭虎口石垣
二の郭南虎口石垣    二の郭北虎口石垣
主郭南尾根郭石垣      主郭西側斜面石段
     西の郭石垣(崩落で真ん中が抜けている)    北尾根の段郭の隅石垣            
西の郭石垣
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