摂津 / 大坂城



ファイルNo1532

大阪市民の城 大坂城。天守は模擬ではあっても風格さえ感じる。

                                    模擬天守   

@ おおさかじょう 
  別名 

A住所:大阪市中央区大阪城 
B目標地点:大阪城公園 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・市街地 

F遺構等:郭・石垣・水堀・現存櫓・模擬天守 
G時代/人物:戦国・江戸期/豊臣氏・徳川氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  JR大坂城公園前駅から20分

J撮影・訪問時期:2000年11月・2006年07月
         2013年08月 2014年10.11月 他

  
桜門から模擬天守

  ←大手門・千貫櫓の位置

【道案内】

名神高速道吹田インタで下り、近畿道で東大阪JCTまで行き、阪神高速13号東大阪線で6Km先の森之宮ランプあるいは法円坂ランプで下りた北側です。大坂城は電車のほうが便利かもしれませんね。JR大阪駅から環状線で大阪城公園駅で降りて大坂城ホールを越え、青屋門、極楽橋を越えて天守です。




【現況・訪城記録】

近世三代名城のひとつというべきか、石垣は壮大であり、高さ、精巧さ、巨大さなど圧倒されます。模擬の天守ではありますが、風格を感じるくらいです。また、千貫櫓、四番櫓、六番櫓なども現存しています。(現在、大阪と書きますが、城は大坂城と表記致しました。)


【歴史】

大坂城のある場所は 明応五年(1496年)に本願寺蓮如が大坂御坊を建て、天文二年(1533年)に、本願寺が山科より移り、石山本願寺として一向宗の本拠地となった場所です。この石山本願寺も寺と言いながら城そのもの(寺院城郭)であったようです。元亀元年(1570年)以降は織田信長と対立し、十年以上にわたり争い、天正八年(1590年)に和議となり本願寺は紀州に去り、この時に石山本願寺は炎上して廃墟となりました。天正十一年(1583年)に信長の後継となった豊臣秀吉はこの地に大坂城を築きました。天守は天正十三年(1585年)に完成したとされます。その後拡張が続きましたが、慶長三年(1598年)に秀吉が亡くなり、慶長五年(1600年)の関が原の戦いを経て、慶長八年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に就き、二年後の慶長十年(1605年)に秀忠が二代将軍となり、徳川家の天下が固められます。その間、大坂城は、秀吉の遺児の秀頼、その母の淀君の居城でしたが、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で徳川氏は大坂城を攻め、翌年の慶長二十年(1615年)に再び攻め、大坂城は炎上し、秀頼、淀君は自害し、豊臣氏は大坂城とともに滅亡しました。その後、松平忠明が大坂城主となりますが、大きな再建築城はされなかったようです。元和五年(1619年)に忠明は大和郡山に転封となり、大坂は徳川直轄地となり、大坂城には城代が置かれ、初代には内藤信正が就きました。元和六年(1620年)に徳川氏は豊臣氏の大坂城を消し去るように徳川氏の大坂城の築城を開始しました。徳川の天守は寛永三年(1626年)に完成したとされます。天守は寛文五年(1665年)に落雷で焼失し、その後は再建されませんでした。大坂城は徳川時代を通じて直轄地で城代管理の城として明治維新まで続きました。昭和に入り、昭和六年に徳川氏の天守台の上に、豊臣氏の天守を模したコンクリート製の天守が建てられ現在まで続いています。

  
千貫櫓
  
六番櫓と内堀・石垣
  
  

近くの城・関連の城:

            

  現地案内板より                   花と天守
東外堀                    青屋門
夕日を浴びる大坂城模擬天守
夜の天守
内堀と石垣                         桜門横の空堀   
大手門と千貫櫓
桜門と天守遠景
千貫櫓と多門櫓                                    乾櫓  
千貫櫓多門櫓内部
千貫櫓内部
千貫櫓内部
一番櫓と内部天井
一番櫓の窓
六番櫓                          外堀石垣
京橋口の巨石石垣
秀吉期石垣の頭        金蔵そばの発掘調査         江戸末期の石列
発掘石垣復元(豊臣期)                        江戸期護岸用石垣