摂津 大坂城



ファイルNo1532

 天守は模擬ではあっても風格さえ感じる。現在は大阪市民の城

               模擬天守             

@ おおさかじょう 
  別名 大阪城・石山本願寺 錦城 金城 

A住所:大阪市中央区大阪城 
B目標地点:大阪城公園 
C形式:平城or平山城  D比高:−−m 
E現況:公園・市街地 

F遺構等:郭・石垣・水堀・現存櫓・模擬天守 
G時代/人物:戦国・江戸期/豊臣氏・徳川氏
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  JR大坂城公園前駅から20分


J撮影・訪問時期:2000年11月・2006年07月
 2007年07月08月11月、2013年08月
 2014年04月10月11月 2022年01月
 2023年03月05月08月 他   

  

道案内 ←大手門・千貫櫓の位置

名神高速道吹田インタで下り、近畿道で東大阪JCTまで行き、阪神高速13号東大阪線で6Km先の森之宮ランプあるいは法円坂ランプで下りた北側です。

大坂城は電車のほうが便利かもしれませんね。JR大阪駅から環状線で大阪城公園駅で降りて大阪城ホールを越え、青屋門、極楽橋を越えて天守です。あるいは、地下鉄谷町線で谷町四丁目駅を下りて2番出口、18番出口を出て東に進むと大手門付近に致します。

訪城備忘録

上町台地の先端にある大坂城です。現在の城跡は豊臣秀吉の大坂城を覆うように土盛され築城された徳川氏の城ですね。近世三代名城のひとつというべきか、石垣は壮大であり、高さ、精巧さ、巨大さなど圧倒されます。

現在、天守に向かうには、JR大阪城公園駅側の大阪城ホールそばを通り、青屋門から入り、内堀の極楽橋を渡っていく方法、JR森ノ宮駅側から玉造口門から入り、桜門で内堀を越えて本丸に入る方法、地下鉄谷町四丁目駅からNHKホール、大阪歴史博物館の横を越えて、大手門・大手多聞櫓の枡形に入り、桜門で内堀を越えて本丸に入る方法、地下鉄天満橋駅から京橋口枡形から入り、左回りに内堀沿いを行って、内堀の極楽橋を渡って行く方法があります。

天守は模擬(昭和六年(1931年)にコンクリートで建てられた。)ではありますが、風格を感じるくらいです。大手門、大手多聞櫓、千貫櫓、一番櫓、六番櫓、乾櫓、金蔵などが現存しています。(桜門は焼失後明治期に再建) また、天下普請の城ですので、石垣に無数の刻紋(刻印)が刻まれた石を見ることができます。多くの巨石が石垣に使用されていますが、その中でも大きな巨石は京橋口枡形、大手門枡形、桜門枡形に集中しています。虎口(枡形)の鏡石と言う事でしょうけど、それにしても大きいです。ちなみに巨石ランキングは1位は蛸石(桜門)で、以下は、A肥後石(京橋口)、B振袖石(桜門)、C大手見付石(大手門)、D大手二番石(大手門)、E碁盤石(桜門)、F京橋口二番石(京橋口)、G大手三番石(大手門)、H桜門四番石(桜門)、I竜石(桜門) J虎石(桜門)の順だそうです。写真を整理してましたら、蛸石や肥後石は何枚も出てくるんすが、振袖石など撮ってない石もある。^^;(笑)

さらに、発掘調査などで豊臣期の石垣が地中より発掘されています。(現在、大阪と書きますが、城は大坂城と表記致しました。)

滋賀県の琵琶湖にある竹生島、ここにある唐門などが2020年春に修復完了しました。この唐門は豊臣大坂城から京都の豊国廟に移され、さらに竹生島宝巌寺に移されたとされていました。今回の修復作業の中でこの説はほぼ確定したようで、豊臣大坂城の建物遺構と言えるものです。唐門などは豊臣大坂城の極楽橋にあったものとされます。

【訪城記録】
2022年01月に二度訪城し、二度に分けて現在の大阪城公園の堀端をほぼ一周してみました。
2023年03月 大阪歴史博物館から大坂城を遠望してみました。
2023年05月 大手門から本丸経由で青屋門へ抜ける定番コースで。
2023年08月 青屋門から入り、本丸には入らず、内堀の北側を廻って見ました。

歴史
本丸の城址碑

大坂城のある場所は 明応五年(1496年)に本願寺蓮如が大坂御坊を建て、天文二年(1533年)に、本願寺が山科より移り、石山本願寺として一向宗の本拠地となった場所です。この石山本願寺も寺と言いながら城そのもの(寺院城郭)であったようです。元亀元年(1570年)以降は織田信長と対立し、十年以上にわたり争い、天正八年(1590年)に和議となり本願寺は紀州に去り、この時に石山本願寺は炎上して廃墟となりました。天正十一年(1583年)に信長の後継となった豊臣秀吉はこの地に大坂城を築きました。天守は天正十三年(1585年)に完成したとされます。その後拡張が続きましたが、慶長三年(1598年)に秀吉が亡くなり、慶長五年(1600年)の関が原の戦いを経て、慶長八年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に就き、二年後の慶長十年(1605年)に秀忠が二代将軍となり、徳川家の天下が固められます。その間、大坂城は、秀吉の遺児の秀頼、その母の淀君の居城でしたが、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で徳川氏は大坂城を攻め、翌年の慶長二十年(1615年)に再び攻め、大坂城は炎上し、秀頼、淀君は自害し、豊臣氏は大坂城とともに滅亡しました。その後、松平忠明が大坂城主となりますが、大きな再建築城はされなかったようです。元和五年(1619年)に忠明は大和郡山に転封となり、大坂は徳川直轄地となり、大坂城には城代が置かれ、初代には内藤信正が就きました。元和六年(1620年)に徳川氏は豊臣氏の大坂城を消し去るように徳川氏の大坂城の築城を開始しました。徳川の天守は寛永三年(1626年)に完成したとされます。天守は寛文五年(1665年)に落雷で焼失し、その後は再建されませんでした。大坂城は徳川時代を通じて直轄地で城代管理の城として明治維新まで続きました。昭和に入り、昭和六年に徳川氏の天守台の上に、豊臣氏の天守を模したコンクリート製の天守が建てられ現在まで続いています。


千貫櫓      大手門
現地説明板より
豊臣秀吉像 (桜門の向かい側の豊国神社)
宝巌寺唐門/滋賀・竹生島 
大坂城遠望 
大阪歴史博物館から遠望
大阪歴史博物館から遠望
京橋口周辺から本丸内堀北側西側  
伏見櫓台石垣
京橋口
京橋口二番石
肥後石
京橋口枡形
  北仕切り門 
隠し郭下石垣の水堀越しの反対側(北仕切り門そば)
    隠し郭下石垣/刻紋(刻印)のある石垣/青丸は隅立て四ツ目紋<京極氏>   
             北側内堀と模擬天守 右下内堀に金色の遊覧船
模擬天守
青屋門から本丸東側下内堀周辺 
青屋門(復元)
東側内堀
糒櫓台石垣
模擬天守と北面石垣と極楽橋
模擬天守と極楽橋
姫門
外堀と乾櫓
乾櫓
突き出た石垣ライン/右端は坤櫓跡
千貫櫓と大手多聞櫓門と大手門
六番櫓と石垣
六番櫓と石垣
大手門・千貫櫓周辺 
千貫櫓と大手多聞櫓門
千貫櫓と大手多聞櫓門
大手門 
千貫櫓
千貫櫓内部
千貫櫓内部
千貫櫓内部
大手門
大手見付石と大手三番石
大手見付石 (奥に大手三番石)
大手二番石
大手多聞櫓門
桜門周囲から本丸  
本丸西の一番櫓台石垣
本丸内堀(空堀)・本丸西の一番櫓台石垣・桜門への土橋
  虎石  桜門 蛸石越しの天守 竜石
蛸石越しの天守
桜門(両サイド:左が虎石、右が竜石)
蛸石
碁盤石と蛸石
蛸石
桜門枡形
模擬天守と本丸
夏の夜のイベント
金蔵
秀吉時代の石垣の頭   金蔵近くの発掘    江戸末期の石列
模擬天守(南面)
模擬天守(南西側から)
模擬天守(西面)
模擬天守(北西下から)
隠し郭の石垣
隠し郭の石垣の刻紋(刻印)
本丸東側(南から)
本丸東南隅櫓
一番櫓
一番櫓の内部
六番櫓
玉造口(巽櫓石垣)
一番櫓
一番櫓
  
発掘石垣復元(豊臣期)  大坂城公園周辺    江戸期護岸用石垣
天守などの夜景  
夜景の天守
姫門付近から夜景の天守
極楽橋側から夜景の天守
MIRAIZA

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