東三河/ | 作手亀山城 |
ファイルNo0152 |
作手奥平氏の本城。平山城の遺構がよく整備されています。
@ かめやまじょう |
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【道案内】 東名高速道豊川インタより国道151号線で新城方面に向かい、新城市内の杉山北の信号で左折し国道301号線に入り作手に向かいます。17km先、国道301号線沿いの「道の駅つくで手作り村」の後方の丘陵先端にあります。道の駅より国道を200mほど役場方面に行くと、亀山城の道標があり、そこを右折します。駐車場は国道から見て城址の裏手にあります。右折してから道なりに200m行った左側方向が駐車場、右方向が徒歩登城道です。道の駅を出てすぐ右手丘の上に大きな「亀山城址」の看板が見えるのですぐに判ります。道の駅から徒歩でも行けます。 【訪城備忘録】 作手奥平氏本城です。縄張りは完存していると言えます 主郭の周囲を土塁が巡り、主郭を中心に両サイドに二の丸・西の郭を配し、双方からの主郭との虎口が明瞭に残り、この中心部を巡るように空堀が北側・南側を巡ります。その外側に南の郭、東の郭などを配します。また、本城周辺に武家屋敷などの付属施設が点在していたようです。 【歴史】 奥平氏は天授年間(1375〜80年)に上野国甘楽郡奥平郷より奥平貞俊が移り住みます。(移り住むというより新田系の奥平貞俊は山崎三郎左衛門高元を頼って落ち延びてきたという感じです) 作手で信望を集めた貞俊は川尻城を築き、更に応永三十一年(1424年)亀山城を築き移ります。その後、貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌(信昌)と続きます。天正元年(1573年)に古宮城の武田勢を破り、天正三年(1575年)に長篠城に移ります。この年の長篠の戦いで長篠城を死守し、信昌は新城城を築き移ります。亀山城は慶長七年(1602年)に信昌の四男の松平忠明が1万七千石にて入封しますが、慶長十五年(1610年)に伊勢亀山城に移封されます。元和年間(1615〜23年)には廃城になったようです。 <現地案内板より> |
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