近江 横山城



ファイルNo0816

小谷城攻略の拠点となった城

             南城側郭と竪堀

@ よこやまじょう 
  別名  

A住所:長浜市石田町・堀部町〜米原市村居田・朝日
B目標地点:観音寺 または、日枝神社(石田山公園)
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林

F遺構等:土塁・堀・碑・説明板
G時代/人物: 室町期/京極氏?
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  40分


J撮影・訪問時期:
2004年04月・2020年04月

  

道案内  ←日吉神社登り口  ←観音寺登り口  ←南城

北陸高速道長浜インタを下り、県道37号線を東に進みます。約3Km先の東上坂の信号で右折し、県道243号線を進みます。約1.6Km先の石田町内のT字交差点(十字路ですが、直進は路地のためT字に見えます。)を左折し、県道509号線に入ります。約2km先が観音寺トンネルです。トンネルは約800mで、トンネルを抜けたら約400m先で逆V状に左折します。約200m先を右折し約200m先左手が観音寺です。観音寺本堂の右手に登山口があります。登りを進むと南城主郭に至ります。

または、県道509号線に左折し約200m先の左に日吉神社があり、ここより登ると北城に至りますが、日吉神社近くには駐車場がありません。

訪城備忘録

一度目は日吉神社より登りました。尾根まで登り進みますと城域には「土塁」・「堀切」などの案内板が設置されています。北城は土塁も低く、堀切も浅く遺構が不鮮明になっているように感じます。ただ、主郭からの眺望は気持ちがよく、東に伊吹山あるいは長比城・上平寺城(苅安城)を望み、北側は姉川、遠くには小谷城が望めます。北城からいったん下り、南側尾根を進むとL字の大きな竪堀があり、そこより今でも切岸が鋭い南城主要部に至ります。主要部は神社になっていますが、井戸など残り、主郭南側の堀切も明瞭で、北城より遺構がはっきりしています。最初北城が作られ、姉川の合戦以降に南城が拡張され、一城別郭の構成になったのではないかと思えます。南城の南側に降りていくと県道に出ました。正味2時間くらいの山歩きでしょうか

2020年4月訪城
以前あった駐車場が無くなったので、観音寺から登り南城から入りました。南城から北城主郭、及び、南西の尾根上の遺構を見てから北城主郭から茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所)への尾根を縦走しました。尾根上は古墳群が点在していて、明瞭な城郭遺構的なものはないですね。ただ、犬飼坂(犬飼堀切)と呼ばれる切通(大堀切)は深くて尾根を完全に遮断している箇所があります。
観音寺は石田三成な豊臣秀吉にお茶を出した三献の茶の逸話があるお寺です。(この話は木之本の法華寺にもあります。)
観音寺本堂
歴史

横山城は長浜市の東側、横山丘陵(臥竜山がりゅう)の最高所(標高312m)を中心に三方の尾根をY字状に配されています。四十ケ所以上の郭からなり、いたりところに土塁・堀切・竪堀などの防御施設があります。築城時期は定かではありませんが、当初は京極氏の支城として築かれたと考えらます。その後、浅井氏と六角氏との対立激化にともない、それぞれの前線基地として争奪が行われ、浅井氏の勢力拡大したことにより、浅井氏の南進基地としての役割を果たしました。この城が特に注目されたのは、元亀元年(1570年)の姉川の合戦とそれ以降の織田氏と浅井氏の攻防においてです。姉川の合戦時は浅井氏の家臣の三田村氏が守備していましたが、合戦後は、織田氏の前線基地となり、木下秀吉(豊臣秀吉)が守将として、竹中重治(半兵衛)が城代であったようです。浅井氏滅亡の天正元年(1573年)までの三年間を守り通しました。さらに天正十年(1582年)の賤ケ岳の戦いの際にも使われたようです。

南城の堀切      北城の二重堀切
現地説明板より
北城主郭より伊吹山
  
南城の南側堀切
土塁   南城主郭   井戸
南城北側斜面と竪堀
北城主郭
北城主郭より小谷城
北城南西尾根の郭と土塁
北城南西尾根二重堀切@
北城南西尾根二重堀切A
北城南西尾根二重堀切
北城南西尾根郭低土塁
北城南西尾根先端郭
北城北尾根堀切
      観音寺参道     観音寺山門(伝:長浜城城門移築)

近くの城・関連の城:長浜城 石田館 上坂城 三田村城 小谷城 北尾根縦走(砦群) ※