近江/ | 長浜城 |
ファイルNo0780 |
@ ながはまじょう |
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【道案内】 ←駐車場の位置 北陸自動車道長浜インタを下り、県道37号線を長浜市内へ向かいます。900m先の川崎町の信号で国道8号線を横切り、県道37号線からそのまま県道251号線を進みます。川崎町より1.6Km先の祇園の信号で左折し、県道44号線に入ります。900m先の正面が長浜城です。公園町の信号を左折し長浜城址公園(豊公園)沿いに300mほど進み右が公園の駐車場です。 【訪城備忘録】 城跡は公園となり、模擬天守が琵琶湖湖畔に建ちます。遺構としては、半分琵琶湖に沈んでいる太閤井戸と呼ばれる井戸跡があります。(遺構かどうかは疑問) また、市内の大通寺の台所門は長浜城の大手門、観音寺の総門も移築門と伝わります。遺構としての楽しみはあまりありませんが、春は桜が綺麗ですし、夏場は琵琶湖の景色が気持ちのいい城址公園です。 2019年08月 現地説明会 豊公・園の再整備に先立ち遺構調査というより遺構破壊の無い深さはどのくらいかを調査のために試掘が実施されたもので、今回の石垣で模擬天守南側から出てきた石垣は昭和44年の発掘石垣に比べ小さく、矢穴も無いため羽柴秀吉(豊臣秀吉)の築城時、あるいは、山内一豊が城主の時代の石垣と考えられるとともに、今まで推定されていた本丸範囲より外れたところに出てきているため本丸範囲はもっと大きいとも考えられるようです。説明員の方は山内一豊では財力がないため、この石垣は羽柴秀吉築城時のものと考えるとの発言でした。さらに、今回出てきた石列は根石であり、その下に胴木がないこと土壌に外側、内側に変化がないことから水堀の石垣根石ではなく本丸の区画をするための石垣の一部と考えられるようです。胴木が無いため、この根石の上に築かれた石垣は4m程度であったと推測するとの事です。もう一カ所の出土石は天守閣碑のある古丘の麓で出てきたもので天守石垣の一部の石ではないかと考えられるようです。石の大きさは石列より大きく、本来の石垣の大きさではないかと考えられるようです。これら石垣は調査完了後には埋め戻されるようです。 公園内には大正時代に整備された石垣がありますが、これらの石は本来の長浜城の石が多く使われているようです。ひとつの石に矢穴が残っている石があります。長浜城は廃城後には長く畑となっていたため太閤井戸も遺構かどうかは疑わしいらしいです。 2021年11月 琵琶湖の渇水の影響で太閤井戸の周りが陸地になってるとの情報で見てきました。それと長浜駅の旧駅舎を始めてまじまじと見てみた。現存する日本最古の駅舎だそうな。 【歴史】 長浜は元は今浜といい、佐々木高氏(京極道誉)が室町始めに出城を築き、家臣の今浜氏、上坂氏が守将として在城したと伝えられます。天正元年(1573年)に小谷城が落城し、浅井氏が滅亡、その後に織田信長よりこの地を与えられた羽柴秀吉は、小谷よりこの地に築城し、今浜を長浜と改めました。天正十一年(1583年)の賤ケ岳戦い時には、柴田勝家の養子の柴田勝豊が城主でしたが、秀吉方に付きます。天正十三年(1585年)には山内一豊が城主となり、5年間在城しました。慶長十一(1606年)には内藤信成が城主となり、その子の信正が元和元年(1615年)に攝津高槻城に移封となり、長浜城は廃城となりました。これに先立ち、慶長八年(1603年)より築城開始された彦根城に建物、石垣などが移築されており、天秤櫓や西ノ丸三重櫓は長浜城よりの移築と伝わります。他に、大通寺台所門、知善院表門、観音寺総門も移築門と伝わります。 |
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観音寺 |
長浜城発掘調査現地説明会 |
大通寺 2021/05 |
長浜駅 旧駅舎(日本最古の現存駅舎) |