美濃/ | 篠脇城 |
ファイルNo0440 |
主郭周囲をぐるりと巡る畝状竪堀(臼の目堀)は圧巻です。
@ しのわきじょう |
道案内 | |||
東海北陸自動車道のぎふ大和インタを下りて右折して国道156号線へ向かいます。800m先で左折して国道156号線に入り、白鳥・荘川方面に進みます。1.5Km先の徳永の信号を右折し県道318号線に入ります。2Km先の左手に明健神社・古今伝授の里があります。栗巣川を挟んで右手には東氏館庭園跡があり、この庭園の山麓側に篠脇城の標柱と説明板の設置してある登城口があります。 |
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訪城備忘録 | |||
この城は主郭周囲を三十余りの竪堀(畝状竪堀=臼の目堀と呼ばれています)が取り囲んでおり、それがいまなお明瞭な形で残っています。主郭南側で出丸との間の大きな堀切、北側にある長い竪堀も見事です。しかしながら、このはりねずみの如く巡らしている畝堀は異常なほどです。主郭・二の郭はさほど技巧的ではないのにこの畝堀はなんなんだっていう感じです。惜しくは草木が伸びていて畝堀が明瞭に見えないのが残念です。この周辺で畝堀が見られるのは郡上では二日町城、飛騨では広瀬城・向小島城・小鷹利城・三仏寺城などで見られます。なお、明建神社にも城址碑があります。スタンプラリー派としては重要(自爆) 2014年9月再訪 まだまだ夏の草木は伸びており、やや遺構は見難いですが、それでも深い竪堀、続く畝状竪堀、出丸側の連続堀切は見応え充分です。 2015年4月再訪 この日は雨模様で歩きにくかったですが、まだ、新芽も芽吹いたところで、竪堀の綺麗なU曲線が見られました。 |
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正和元年(1312年)頃に東氏四代目東氏村が築城し阿千葉城より本城を移しました。応仁の乱(1467〜1477年)に東軍細川氏についた東氏に対し、西軍山名氏方の美濃守護土岐成頼は応仁二年(1468年)に守護代斎藤妙椿に篠脇城を攻めさせ落城させましたが、妙椿は東常縁の詠んだ歌に感動し城と土地を返上し常縁は九代目として篠脇城に復帰しました。十二代目常慶の時、天文九年(1540年)と翌年には越前朝倉氏の攻撃を受けましたがかろうじて撃退しますが、篠脇城は守るのに不適と判断し、天文十年(1541年)に東殿山城を築いて本城を移しました。篠脇城の廃城は永禄二年(1559年)に東殿山城が遠藤盛数に攻められ落城し東氏が滅亡した時期ではないかと推測されます。 |
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2015年04月 |