美濃/ | 東殿山城 |
ファイルNo0489 |
東氏最後の城。山上に唐突に石垣が残る
@ とうどやまじょう |
道案内 | ||||
東海北陸道の郡上八幡インタで下り、国道156号線を郡上八幡市街方面へ進みます。600m先の城南の信号で左折し国道256号線に入ります。1.5Km先の右手の市役所を通り過ぎ、さらに300m進みだ所を右折し進むと愛宕公園・愛宕神社があります。神社の東側(五人塚のある所)に登山道があります。ここをひたすら登っていきます。10分ほど登ると祠がある平坦地にでます。ここに東殿山城(赤谷山城)の碑がありますが、赤谷山城は東殿山城のさらに奥という認識ですが、赤谷山城には遺構らしきものが見当たりません。ここは、愛宕陣の遺構とも考えられます。また、現在は、東殿山城=赤谷山城との認識なのでしょうか? この祠の後ろ側に登山道が続いています。ここからすごい岩山の急斜面を2回ほど登ります。10年前に比べれば、登山道は整備され、ロープを伝うところもありますが、登りやすくなってます。途中の平坦地に郭跡の碑、「愛宕公園・乙姫方面」の案内が2箇所ほど設置されています。アップダウンの山道を進み(途中は堀切あるいは小郭のようです。)少し大きめの削平地にでます。ここは二の郭跡のようです、最後にもう1回急斜面を登ると主郭です。麓の公園・神社より約60分の行程で主郭に到達します。 |
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訪城備忘録 | ||||
10年前、登るのがきつかった山城のひとつです。登り道は途中で岩山の斜面になり本当に危ないと感じるくらいきついものでした。10年後、登城道もそこそこ整備され、登りやすくなってます。それでも、ロープを頼りの斜面もあり、なかなかワイルドです。登り途中の平坦地には、大手郭、三の郭、二の郭の標識が立ってました。主郭は、簡素な縄張りの城で西側に残る石垣(高さ2m程度、長さ8m程度残っています)が唐突な感じすらする小さな主郭です。主郭背後の堀切は天然の地形に少し手を加えているという感じですが、豪快な大堀切です。詰城だからこんなものだと言うものの、この城の前の城が畝状竪堀のある篠脇城であるのに、ここの城はただ高いところにあるだけという感じです。篠脇城の畝状竪堀は東氏の手で作られたんかいなと疑いたくなるこの城です。ただ、やはりこれだけ比高のある城を登ると達成感は充分にありますね^^ なお、郡上八幡城に東殿山城の説明板があります。郡上八幡城から遠望すると、山頂が赤谷山城で、その左手(東側)が東殿山城です。 二の郭から主郭への坂を登る途中に右手方向への道があります。この道の途中で郡上八幡城を見降ろせます。また、そのまま進むと、斜面に木の橋をかけたような道があり、進むと主郭背後の天然の岩場の大堀切に行けます。 |
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天文十一年(1542年)に東常慶が築城し篠脇城よりここに本城を移しました。しかし、郡上は東氏の一族の遠藤氏が台頭し、常慶の子の常堯(つねたけ)が木越城主遠藤胤縁(たねより)が謀殺したため、胤縁の弟の苅安城主遠藤盛数が永禄二年(1559年)に八幡山に陣を構え東殿山城を攻撃しました。城に立て籠った東常慶は10日間の激闘の末落城、常慶は討死し常堯は帰雲城主内ケ島氏理(うじさと)を頼って落ち延び東氏はここに滅亡しました。落城時、追い詰められた城兵が、断崖から転げ落ちた東側を地獄谷と呼ぶそうです。常堯は天正十三年(1585年)の大地震で帰雲城が山津波で一瞬に埋没した際、内ケ島氏とともに圧死しました。 |
2015年 |