東三河/ | 田峯城 |
ファイルNo0159 |
田峰菅沼氏の本城 復興の主殿・櫓・門が建つ
@ だみねじょう |
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【道案内】 東名高速道の豊川インタを下り、国道151号線をひたすら17Km北上し、国道257号線に入ります。17Km先、国道257号線の清崎トンネルそばで田峯観音を目指しますと城址に着きます。(要所に案内板あります) または、新城・鳳来方面より県道32号線で北上、海老池貝津の信号で左折し県道389号線に入り、稲目トンネルを越え田峯のバス停付近で左に入り(田峯城の標識あります)山道を登りますと。 <なお、この県道389号線は200mほど先の田峯の信号で左からの国道257号線と合流します城跡に着きます。(要所に案内板あります) 【訪城備忘録】 主郭には模擬の主殿・櫓・門などが建ち、中世城館の雰囲気を出してます。大手筋の段郭も整備され一言で言うと綺麗すぎるという感じです。でも、手のつけられていない遺構はないかと探してしまうのはへそ曲がりでしょうか?^^;; (真弓山城(足助城)でもそうでしたが・・・) 絡め手側の主郭下に帯郭?堀?のようなところがありました。 なお、主殿への見学はPM4までですので注意。 2016年に久しぶりに来てみましたが、ホンマに10年前と変わらん姿でした。^^ どなたかが、この時代に礎石のある建物はなかろうと言われましたが、なるほど! そうかも^^; まぁ、観光用としてはエエんちゃうかな。 【歴史】 文明二年(1470年)菅沼定信が築きました。菅沼氏は作手村菅沼を発祥としています。菅沼氏は定直が田峯に移り田峯城を築きます。田峯菅沼氏・長篠菅沼氏・作手奥平氏をもって山家三方衆と言われます。定信以後、定忠・定広・定継・定忠(定吉)と続きます。当初、今川氏に属した菅沼氏ですが、時に応じて 松平氏(織田氏)・武田氏に帰属します。五代定忠(定吉)は、武田氏に属し長篠の戦いに出陣、武田方が大敗すると留守居役の叔父の布里城主菅沼定直と家老今泉道善は定忠(定吉)の田峯城入城を拒み、定忠(定吉)は信州に敗走しました。翌年定忠は夜襲をかけ田峯城を奪還し、謀反の一族を惨殺します。しかし、天正十年(1582年)、定忠(定吉)は武田氏滅亡後徳川氏の罷免を乞いますが受け入れられず飯田知久平にて徳川氏方牧野氏に討たれ、田峯菅沼氏は滅びました。ただ、その後は、定忠(定吉)の子の定利は知久平城城主となり、養子忠政(奥平氏)は江戸期美濃加納城主となったとの事です。(その後無嗣断絶) <参考:現地案内板・資料> |
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