伊勢 | 白瀬城 |
ファイルNo4091 |
@ しらせじょう |
道案内 | |||
名神高速道関ヶ原インタから国道365号線で南下した場合は約26km先(国道365号線と国道306号線の分岐の黄金大橋南の信号の手前約400m)で左折し県道614号線に入ります。 (または 桑名市からが国道421号線、いなべ警察署前の信号で国道365号線経由別名の信号で国道306号線、または、県道5号線で北上した場合は北勢町の鎌田の信号からさらに国道306号線を約4km先、本郷南口の信号で右折し県道614号線に入ります。) 約1.2km先で左折します。(桑名方面からだと約1.5km先を右折) 約1.6km先の右手の段丘が城跡です。(左の上は藤原工業団地です。) |
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訪城備忘録 | |||
この城は4回目の挑戦で初訪城となりました、1回目は場所が判らず、2回目はこの地域、鈴鹿・養老山系の山には山ヒルが多く、2回目は足を踏み入れた瞬間に山ヒルが吸いつき撤退、3回目は雨模様で断念、今回は前々日から晴れていたので行けると思い攻略しました。冬場に行くのが安全かもしれません。 さて、城跡ですが、まずは登城口。 この城は員弁川とその支流?かの川に挟まれた丘陵にあり、員弁川側はここという登城口がわからない、工業団地側からは城跡と道路の間に岸までの高さが3mくらいの切立った川のためどこからでも攻略はできません。この城跡には鉄塔が建っていて、この鉄塔への監視道を行くのが一番安全です。道路沿いに近い鉄塔から裏手に廻り込んで川への小道に入ると川には監視道の橋がかかってますので、これを渡ると城跡です。まずは右手に進みます。 右手に進むと主郭などある尾根の北側下に郭が二段あります。これを越えると主郭虎口前に横たわる土塁のところに至ります。この土塁は「かざし土塁」と呼ばれるもので近くの山口城にもあります。かざし土塁の横から北へ堀状が延びていますが、城道なのかな? 主郭虎口を入ります。右手(西側)と左手(東側)の二段になってます。西側は北から西にかけて土塁が巡り、隅が突き出ていて櫓台のようです。この主郭西下に明瞭な堀切が横たわります。 主郭東側の北中央には井戸と思われる大穴があり、北沿いには土塁があります。井戸の東側も虎口と思われる開口部があり、主郭東端下に堀状の窪みが続きます。主郭と鉄塔の建つ二の郭との間は主郭側は前述の堀状で、南端は土橋状になってます。二の郭側は高い土塁状が横たわります。二の郭は前述通り鉄塔が建っているため改変されているとは思います。鉄塔建設前の発掘調査では建物跡などは確認されなかったようです。 二の郭とその東側郭(便宜上東1郭とします)の間には二の郭側は高い土塁、東1郭側は堀状になってます。東1郭からさらに東には堀切で隔てられて東2郭があります。東2郭は二段になってますが、削平は甘いのか改変されたのかという感じです。東2郭の東端下には明瞭な堀切があります。この堀切の南側斜面に近藤氏の墓があります。墓から南の麓に向いて小道があるので、どこか入口があるのでしょうけど、確認していません。 また、堀切から北側下へ下りると谷川を唯一飛び石で渡れる箇所があり、反対側から斜面を登ると藤原工業団地側の道(登城口のある道)のフェンスに囲まれた企業の駐車場のところに出ます。 この城、旧藤原町というよりいなべ市全体でも1,2の城跡遺構と思います。 |
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築城時期、築城者は定かではないようです。白瀬氏の代々の居城であったようですが、一説には建武二年、近藤弾正左衛門光義が築城したとされます。(弟の三郎兵衛義孝が古田城を築城したとされます。) 永禄年間(1558〜70年)には近藤弾正左衛門吉綱が居城していました。永禄四年(1561年)、治田城の治田山城守に攻められ落城し、吉綱は討死したとされます。城内、東の堀切の南側には明治34年(1901年)に一族が建立した吉綱の墓があります。 伊勢の内、北伊勢(鈴鹿市・四日市市からいなべ市の範囲)は北勢四十八家という言い方をされる豪族の家々で表現されます。但し、どの家が48家なのかははっきりしていないようです。筆頭は千種城の千種氏であり、有力豪族には采女城の後藤氏、保々西城の朝倉氏、神戸城の神戸氏などが存在しました。員弁郡は北方諸侍と言われた白瀬氏、上木氏、高松氏が中心となって統治したとされるようです。織田信長の伊勢侵攻では、白瀬氏、浜田氏、高松氏などは織田氏に降り、侵攻の先導をしたとされるようです。 |
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