伊勢 治田城



ファイルNo0024


              主郭櫓台              

@ はったじょう (はるたじょう) 
  別名 

A住所:いなべ市北勢町麓村〜垣内〜奥村
    旧:員弁郡北勢町 

B目標地点:麓のバス停 
C形式:丘城  D比高:20m(麓から60m)
E現況:山林 

F遺構等:郭・土塁・堀切・井戸・(説明板)
G時代/人物:室町期/治田氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
 案内板があるところより坂下国道よりに駐車
 そこより
20


J撮影・訪問時期:2003年11月・2024年11月

  

道案内 

東海環状自動車道の大安インタを下り、国道365号線に左折します。約700m先、三笠橋南詰の信号を左折し国道421号線に入ります。約4.2km先の石榑北(いしぐれきた)の信号を右折し国道306号線に入ります。約3.2km先の麓村の信号を越え、約300m先の「麓」のバス停の先を左折して登ります。500mほどで貯水池でそこに城跡標識があります。 貯水堤防を渡り、そこから直登20mで、郭内に入ります。

訪城備忘録

2003年から2024年再訪しました。見る目が少し超えたかもとは思ってましたが、私にはわかりにくい城跡です。以前は堤防手前に城跡標識と説明板があったんですが、今は説明板が無くなり、標識もガードレールにくくってありました。堤防を渡り、小さな祠の先にV字の斜面があります。左手が主郭方面ですが、右手斜面から登ってみました。

右手斜面に竪堀状の窪み、尾根上には削り残しの郭、L字に残る土塁状があったり、堀切状もありました、どこまで遺構なのか?です。その上が主郭になるんですが、主郭西下は尾根が繋がり、自然地形なのかはありあmすが、堀切状になってます。主郭下東側に主郭へ大きく食い込んだ窪地があり、虎口のようです。城道としては主郭下から右折して麓側に繋がっているようで、枡方状の虎口と言えるのかもしれません。主郭には大きな櫓台の土壇があり低い土塁が廻っている感じです。主郭から北側三段目の段郭の谷状に大きな窪地があり、これが井戸である感じです。ここは祠の所からやや左手に登ったところになります。全体的に切岸もしっかりしているんですが、縄張としてつかみにくい城跡でした。

城跡への入口(2003年)
歴史

築城時期は定かではないようです。治田五兵衛が築き、子の治田山城守が継いだようです。永禄十年(1567年)に織田信長の家臣の滝川一益に攻められるも落城しなかったようです。しかし、天正年間に織田信長によって攻められ滅亡したものです。

治田氏は近江の美濃部氏の一族のようです。美濃部九郎右衛門尉が当地に居住したことに始まるようです。山城守は十三代であるようです。

主郭西側下尾根側の堀切    主郭虎口の窪み    
堤防から貯水池(左側が城跡)
  
祠の先のV字斜面(左手主郭方面)    右手斜面尾根先端竪堀状    
右手斜面浅い堀切状
主郭北西下の郭
主郭北西下郭の虎口?
主郭北西下郭土塁と切岸
主郭櫓台を西下から
主郭下西尾根の堀切
主郭下西尾根の堀切
主郭下西尾根の堀切を南に抜けたところの郭と土塁
主郭下西尾根の堀切を南に抜けたところの郭と土塁
城道の土塁
主郭東下虎口の外側
主郭東側虎口
主郭と櫓台
主郭と櫓台
土塁
主郭北東下郭と切岸
北東下段郭
北東下段郭土壇
北西下帯郭と土塁
東段郭と土塁
東段郭と土塁
主要部を出た斜面
斜面と井戸
井戸
城跡遠景(2003年)

阿下喜城(上木城)  4090
@ あげきじょう (あげきじょう) 別名:片山城 
A住所:いなべ市北勢町阿下喜  旧:員弁郡北勢町  B目標地点:城山団地 
C形式:丘城  D比高:20m E現況:住宅団地・雑木林 
F遺構等:郭・土塁・堀  G時代/人物:室町期/片山氏  H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:分  J撮影・訪問時期:2024年11月

国道365号線と国道306号線の分岐点、別名の信号の約100m、権現坂の信号で員弁川側へ入ります。道なりに約1.1km先、右手に北勢線の阿下喜駅を越えたところの信号で右折します。約650m先の道へ逆Vで左折します。坂を登って約250m先を右折し坂を登り住宅団地に入ります。一番奥の道まで行きます。  

郭に相当するところは住宅団地になっていて遺構はありません。団地の北端の先が窪んだ空堀風に横たわっており、これを右手に行くと二股に分かれていて北側へ延びる堀は深くて自然地形には見えない堀です。入った堀状と二股の北側堀に挟まれた所は高い土塁状で、その先に平坦地もありました。二股に挟まれた東側も平坦地になっていて郭のように見えます。南に延びる堀状は団地の東側に横たわる深い堀と合流します。これは自然地形なのか、人的なものなのかはちょっとわかりません。しかし、この一帯、堀状が複雑で全体的には自然地形ではなく堀跡と見たいです。

北畠氏の家臣の片山信保が築城したとされるようです。信保の後を子の平蔵が継いだものの亡くなったため、平蔵の弟の範者が継いだとされます。永禄十一年(1568年)、織田信長の家臣、滝川一益に攻められ滅亡したようです。異説では上木九郎左衛門、あるいは、伊藤氏が城主という説もあるようです。

団地北側の浅い空堀状      土塁状     
分岐から北に延びる堀と右手平坦地
平坦地   空堀状
北側堀状
東側長い堀状(自然地形か??)
北側堀状

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