伊勢/ 神戸城



ファイルNo1107

                        天守台石垣    

@ かんべじょう 
  別名 

A住所:鈴鹿市神戸5丁目 
B目標地点:神戸公園 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・高校・宅地 

F遺構等:天守台石垣・堀・石碑・説明板 
G時代/人物:戦国期/神戸氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分

J撮影・訪問時期:2000年07月・2018年05月

  
城址碑

【道案内】 

東名阪自動車道鈴鹿インタを下り、左折し県道27号線を進みます。3Km先の三畑町で道は二股になり、県道27号線は左手で、右手の道「鈴鹿サーキット方面」に進みます。途中から県道637号線になります。二股から3Km先の汲川原町の高架で国道1号線を越えます。その先で汲川原橋で鈴鹿川を越えます。渡った先の信号で左折し県道54号線に入ります。直線の県道を5Km進むと裁判所前の信号ですが、この二本手前の信号を左折し300m先をまた左折すると神戸高校でこの隣が神戸公園です。公園の北側に駐車場があります。東側の駐車場は本田会館という自治会館の駐車場のようです。



【訪城備忘録】

城跡の二の丸は高校の敷地となり、その他は市街化してますが、本丸部分は周囲より少し高くなっていて、その本丸周囲の堀の一部と本丸には古式の野面積みの天守台が残っていました。天守は関ケ原の戦いの前に桑名城に移築され、それ以後、江戸期を通して天守は建てられなかったものです。明治維新まであった城ですが、本当に本丸部分しか残っていない。桑名城といい、亀山城といい、津城といい、この神戸城といい、三重の近世城郭の壊しっぷりがすごいな。天守台石垣が残ったのは逆に奇跡なんかもです。2018年久しぶりに寄ってみましたが、天守台、自分の記憶より大きいなって感じてしまいました。天守台は東に張り出していて、付け櫓が付属した形だったんでしょうね。本丸周囲はきれいな公園になってます。

また、市役所から県道8号線を南に2Kmの北玉垣町の信号のひとつ手前の信号で左折し、北玉垣町北の信号で国道23号線を越え、500m先、玉垣小学校の先、鈴鹿市東玉垣町の蓮花寺に神戸城の太鼓櫓が移築されています。  さらに四日市市西日野町の顕正寺の山門は神戸城の城門の移築と伝わります。(説明板有) 


【歴史】

正平二十二年(1367年/貞治六年(北朝))に関実治(盛政)の長男の盛澄が沢城を築き神戸氏を称しました。天文年間(1532〜55年)に具盛あるいは弘治年間(1555〜58年)に利盛が沢城から神戸城に移ったとされます。友盛の時、織田信長の侵攻では、永禄十一年(1568年)に信長の三男・三七郎(信孝)を神戸城主・友盛の養子にする事を条件に和睦したものの、元亀二年(1571年)に信長は友盛を沢城に隠退させ、信孝を神戸城主としました。天正八年(1580年)、信孝は五層天守を築いたとされます。信孝は本能寺の変<天正十年(1582年)>後に岐阜城に移り、天正十五年(1587年)、水野忠重が入り、文禄元年(1592年)、滝川雄利が領しました。文禄四年(1595年)、天守は桑名城に移されました。慶長五年(1600年)、関ケ原の戦いで滝川雄利は西軍に加担し改易となり、一柳監物直盛が五万石で入封しました。寛永十三年(1636年)に伊予国西条へ移封となり、その後、石川氏、天領の時期がありましたが、享保十七年(1732年)には本多忠統が入りました。本多氏は明治まで七代続きました。 

  
  
堀跡
  
現地案内板より
  
天守台全景
天守台
天守台
土塁?    天守台
太鼓櫓(移築)
  

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