越中/ | 富山城 |
ファイルNo0056 |
佐々成政がサラ峠越えをした時の居城 富山藩10万石(初代:前田利次)の居城
二代正甫の時代、腹痛薬「反魂丹」を広め富山の薬売りの基となりました。
① とやまじょう |
道案内 | |||
富山駅前の城址大通りを約700m行った右手です。(あるいは、北陸自動車道富山インタより富山中心部へ国道41号線で進み約6Km先左手が城址公園です。) |
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訪城備忘録 | |||
この城はふるさとの城です。自分の小学校前の数少ない写真のなかでおやじとの写真はここでの写真が唯一です。高校では毎日市電に乗って横を通って通いました。浪人の時は敷地内の市立図書館に毎日いました。本丸の芝生でふられたこともあったな^^; 県外に出てからは何年に一度程度しか訪れなくなりましたが。 2022年、改めて富山城を歩いて見ました。 本来、江戸期の富山城には天守はありませんでした。現在の模擬天守は本丸桝形門の多聞櫓があった位置に昭和二十九年(1954年)に建てられたものです。現在はこの本丸の石垣や水堀が残ります。なお、佐々時代の富山城はもう少し南側(現在の総曲輪付近)にあったとも言われています。 内桝形門(鉄門)の石垣は発掘調査後の修復などはありますが往時の姿のようです。東側の石垣は明治期に相当に乱暴に積み直しされた、あるいは、模擬石垣のようです。富山城の石垣は野面積みですが、河川の石が使われたりして丸い石が多く見る事が出来ます。また、鉄門(内桝形門)は布積みと言われる石の目がまっすぐになるような積み方にもなってます。さらに、この鉄門(内桝形門)には正面、左右に合計5つの巨石がはめ込んであります。これは鏡石ではありますが、ひとつの桝形に5つも鏡石があるのも珍しい気がしますし、左回りの桝形も他ではあまり見ないかも。この鏡石は慶長十年(1605年)前後に改修で置かれたものを富山藩成立後の寛永十六年(1639年)以降で、寛文元年(1661年)頃の改修で現在の位置になったとされるようです。 富山城の刻紋(刻印)はあまり目立ちませんが(花崗岩のため風化したり、積み直しで見えなくなったりしているようです。)相当数(350個ほど)あるそうです。 多いのが✛や卍との事でこれは本家金沢城や高岡城でも見られます。富山城にはこれに加え、大型刻紋(刻印)<石垣面全体に刻まれたもの>の五芒星の刻紋(刻印)を見る事が出来ます。金沢城にも残るらしいですが私は確認できていないですが・・・。 五芒星(ごぼうせい)は鬼門・裏鬼門を守るために刻まれる事が多いと言われます。 富山城に残る五芒星刻紋(刻印)は裏鬼門側の南西に残ります。南西隅の石垣の上から八段目と水面ギリギリのところにありますが、水面際のものは水没している事が多いようです。鉄門東側角にも1ケ所ありますが、これは鬼門・裏鬼門には関係ない位置です。もしかしたら鬼門側(東北側)にもあったのかもしれませんが、現在往時の状態に近い石垣は鉄門桝形周辺のみらしいですからなくなったとしても致し方なしですね。この大型刻紋(刻印)は金沢城の場合は寛永年間に多いらしいですが、富山城の場合は鏡石の配置同様、寛文年間の石垣修復の際のものだそうです。 往時、石垣はこの鉄門周辺と搦め手門である北東側の現/佐藤記念美術館周囲から(現)千歳御門北側までが石垣で他は土塁でした。(現)千歳御門から南側の石垣は現代の石垣です。本丸の東にある千歳御門は移築されてたものです。往時にここには虎口はありませんでした。御門は明治期に個人宅に移築されていたものを平成二十年(2008年)にここに再移築したものです。富山城の唯一の建物遺構と言えます。千歳御殿は本丸の東側、現在の桜木町周辺になります。10代藩主の前田利保の隠居所として嘉永二年(1849年)に東出丸に建てられたもので、その正門が千歳御門です。この御門の形式は東大の赤門(加賀前田藩上屋敷の門)と同じ様式だそうです。なお、現/佐藤美術館の北東部分の石垣も明治期に相当に崩れていたままになっていたようです。戦後に積み直しされたようですが、下部はオリジナルな石垣も残っているようです。 富山城、故郷の城ですが、本丸周辺の一部残存でおまけに模擬天守と軽く思ってましたが、案外見るところがあるって改めて感じた次第です。 2023年1月、大雪の富山城です。 2023年12月にまた散策して刻紋(刻印)を数個確認しました。 2024年4月 松川べりの桜を見てきました。 松川は旧の(江戸期)神通川で、富山城の堀の役目も果たしていました。 富山市南部には佐々堤と呼ばれる護岸工事の跡が残っています。 立山連峰のふもとの山には天正十三年に佐々成政が豊臣秀吉に降伏した際に再起の為の資金を隠したとする埋蔵金伝説があります。 【雑】 富山城天守は昭和二十九年に大垣城を模して鉄筋にて建てられた模擬のものです。富山城には元々天守はありません。 2004年から模擬天守は耐震修復され、順次、城址公園も整備されています。この工事の前、本来の富山城に戻すほうがいいのではないかとの意見もあったようです。しかしながら、模擬天守も50年を経過しこの建物そのものが文化財的な存在としてこのまま修復となったとの事です。富山生まれの自分としては生まれてからずっとある天守です。昭和の城として存在することは現時点ではそれでもいいと思います。 関ケ原の戦い前から江戸期初期の元号 元亀(1570~73)⇒天正(1573~92)⇒文禄(1592~96)⇒ 慶長(1596~1615)⇒元和(1615~24)⇒寛永(1624~44)⇒ 正保(1644~48)⇒慶安(1648~52)⇒承応(1652~55)⇒ 明暦(1655~58)⇒万治(1658~61)⇒寛文(1661~73) |
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天文十二年(1543年)、神保氏の家臣の水越勝重が築城したのが最初です。その後、富山城は神保氏三代の持城となりますが、この神保氏と椎名氏及び上杉氏との抗争を繰り返し一向衆も絡み頻繁に勢力が変わります。永禄三年(1560年)3月に神保長職は椎名氏の松倉城を攻めますが、逆に椎名氏の援軍上杉謙信に富山城を包囲され、神保長職は増山城に逃れます。この後、上杉氏城代(河田氏)・椎名氏・そして神保氏の勢力下に変わりますが、天正四年(1576年)神保氏張は上杉謙信に破れ完全に上杉氏の拠点となります。天正六年(1578年)には織田信長の支援を受けた神保長住(長職の子)が富山城を奪います。天正八年(1580年)に長住は織田信長に追放され 結局織田家家臣、佐々成政が天正十年(1582年)に富山城に入城し越中54万石を支配します。その年に信長は本能寺の変で死亡し、佐々成政は豊臣秀吉と戦うことになりますが。しかし、天正十三年(1585年)に降伏し、代わって加賀前田氏の支配するところとなります。慶長十年(1605年)、利長は利常に家督を譲り、富山城を隠居城として入城しましたが、慶長十四年(1609年)の火災で全焼し 利家は高岡城に移り、一時、廃城となりました。寛永十六年(1639年)に利常の次男の利次が10万石を分与され富山藩が成立します。(10万石:富山藩は越中の一部<主に婦負郡>のみであり、残りの地域は加賀藩です) その後、明治維新まで続きました。 |
雪の富山城 |
松川べりの桜 |
【佐々堤・さっさてい】 富山市南部の常願寺川沿いには佐々成政が作らせた佐々堤が残ります。これは玉石を引き詰めた堅固な石堤です。その底には成政の名の刻んだ石を沈め、安全を願ったと伝えられます。今は常願寺川の川底が高くなってしまったため常願寺川と平行に流れる常西用水の川底にその天端の一部を見ることができます。 <現地案内板より> * 左の写真の中央下に川底から石が見えますがそれが佐々堤です。 |
【埋蔵金伝説】 佐々成政は豊臣秀吉に降伏する前に再起するための軍用金を越中のどこかに隠したとされ 時価200億円相当と言われています。その有力候補が鍬崎山で、里歌に「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」という歌があるそうです。 |