越中 / 富山城



ファイルNo0056

佐々成政がサラ峠越えをした時の居城 富山藩10万石(初代:前田利次)の居城
 二代正甫の時代、腹痛薬「反魂丹」を広め富山の薬売りの基となりました。

                           2011年1月撮影 富山城模擬天守   

@ とやまじょう 
  別名  安住城

A住所:富山市本丸
B目標地点:城址公園・富山県庁
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公園・宅地

F遺構等:石垣・水堀・模擬天守・移築門
G時代/人物:戦国期〜江戸期
   /水越氏〜神保氏〜佐々氏〜前田氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  城址公園地下駐車場より5分


J撮影・訪問時期:1999年8月・2011年01月他

  

道案内 

富山駅前の城址大通りを700m行った右手です。、(あるいは北陸自動車道富山インタより富山中心部へ国道41号線で進み6Km先左手が城址公園です。)
 
訪城コメント

この城はふるさとの城です。自分の小学校前の数少ない写真のなかでおやじとの写真はここでの写真が唯一です。高校では毎日市電に乗って横を通って通いました。浪人の時は敷地内の市立図書館に毎日いました。本丸の芝生でふられたこともあったな^^; 県外に出てからは何年に一度程度しか訪れなくなりましたが、模擬天守を含め変わらぬ姿です。 本来、江戸期の富山城には天守はありませんでした。現在の模擬天守は本丸桝形門の多聞櫓があった位置に建てられたものです。現在はこの本丸の石垣や水堀が残ります。なお、佐々時代の富山城はもう少し南側(現在の総曲輪付近)にあったと言われています。

【雑】
富山城天守は昭和二十九年に大垣城を模して鉄筋にて建てられた模擬のものです。富山城には元々天守はありません。 2004年から模擬天守は耐震修復され、順次、城址公園も整備されています。この工事の前、本来の富山城に戻すほうがいいのではないかとの意見もあったようです。しかしながら、模擬天守も50年を経過しこの建物そのものが文化財的な存在としてこのまま修復となったとの事です。富山生まれの自分としては生まれてからずっとある天守です。昭和の城として存在することは現時点ではそれでもいいと思います。ただ、城内にもう少し本来の富山城の説明などを配置し往時の姿も考えられる工夫がしていただけたらと考えます。

 
水堀と石垣
歴史

天文十二年(1543年)、神保氏の家臣の水越勝重が築城したのが最初です。その後、富山城は神保氏三代の持城となりますが、この神保氏と椎名氏及び上杉氏との抗争を繰り返し一向衆も絡み頻繁に勢力が変わります。永禄三年(1560年)3月に神保長職は椎名氏の松倉城を攻めますが、逆に椎名氏の援軍上杉謙信に富山城を包囲され、神保長職は増山城に逃れます。この後、上杉氏城代(河田氏)・椎名氏・そして神保氏の勢力下に変わりますが、天正四年(1576年)神保氏張は上杉謙信に破れ完全に上杉氏の拠点となります。天正六年(1578年)には織田信長の支援を受けた神保長住(長職の子)が富山城を奪います。天正八年(1580年)に長住は織田信長に追放され 結局織田家家臣、佐々成政が天正十年(1582年)に富山城に入城し越中54万石を支配します。その年に信長は本能寺の変で死亡し、佐々成政は豊臣秀吉と戦うことになりますが。しかし、天正十三年(1585年)に降伏し、代わって加賀前田氏の支配するところとなり、慶長十四年(1609年)の火災で全焼し 一時、廃城となりましたが、寛永十六年(1639年)に前田氏の支藩として富山藩(10万石:富山藩は越中の一部<主に婦負郡>のみであり、残りの地域は加賀藩です)が創設され、明治まで続きました。


石垣

模擬天守
千歳御門                          模擬石垣

  
佐々堤

【佐々堤・さっさてい】
富山市南部の常願寺川沿いには佐々成政が作らせた佐々堤が残ります。これは玉石を引き詰めた堅固な石堤です。その底には成政の名の刻んだ石を沈め、安全を願ったと伝えられます。今は常願寺川の川底が高くなってしまったため常願寺川と平行に流れる常西用水の川底にその天端の一部を見ることができます。 <現地案内板より>

* 左の写真の中央下に川底から石が見えますがそれが佐々堤です。
鍬崎山
(中央奥の山・粟巣野スキー場より)

佐々成政は豊臣秀吉に降伏する前に再起するための軍用金を越中のどこかに隠したとされ 時価200億円相当と言われています。その有力候補が鍬崎山で、里歌に「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」という歌があるそうです。


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