加賀/ | 金沢城 |
ファイルNo1175 |
前田氏百万石の居城
@ かなざわじょう |
道案内 ←兼六園側駐車場のひとつ | |||
北陸高速道金沢西インタを下り (福井方面から来た場合です。富山方面から来た場合は金沢東インタで下りてください。) 5Km先の藤江南の信号で右折し県道17号線に入ります。3.5Km先(JR北陸線ガードをくぐり1Km先)の「むさし」の信号で直進して国道159号線に入ります。800m先の橋場の信号で右折します。500mほど先で道はクランク状態で進みます。200m先が兼六園の信号で、右手が金沢城、前方右手が兼六園です。信号の手前左手に市営の有料駐車場があります。 |
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訪城備忘録 | |||
私の子供の頃の金沢城は大半が金沢大学のキャンパスでありましたが、大学が郊外に移転し、二の丸の橋爪門・五十間長屋・菱櫓が復元され2002年に公開されました。 現存建物としては有名な石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫が残っています。石垣は積み方の博物館のようです。前田利家が入城してから改修、拡張されていますので、本丸・東丸の石垣は野面積みの石垣で、土橋門石垣・数寄屋敷石垣・鉄門石垣などは切り込みハギの積み方で、尾坂門や二の丸北面の石垣は打ち込みハギで積まれた石垣です。尾坂門石垣は鏡石も大きく迫力のある石垣です。石川門の桝形の石垣は櫓門の両側(高麗門を入って正面と右折れした櫓門両側)は切り込みハギですが、櫓の下(高麗門の左側)は野面積みで刻印(刻紋)がたくさんあります。この積み方の違いは江戸中期の改修のためと考えられます。また、石川門の下の百阮x沿いの石垣にも多くの刻印(刻紋)が刻まれています。本丸は元和六年(1620年)に消失し、御三階櫓など本丸の再建はされなかったため、現在そこに行くと森の中を歩いている感じです。 **********訪城記録*********** 2012年8月、2015年06月訪城 2012年、河北門(2010年に復元)が復元されていました。2002年に復元された菱櫓・五十間櫓などは10年の年月が経ち、真新しさが無くなって落ち着いた感じ見えます。2015年には玉泉院丸の庭園が復元完成し、色紙短冊積石垣など周辺石垣が整備されました。 2020年10月・2023年06月訪城 2010年に復元された河北門から10年、鼠多門が復元完成したとの事で寄ってみました。鼠多門は建築時期は定かではないものの江戸初期からある門だそうです。他の建物の多くがは宝暦九年(1759年)の大火で焼失しましたが、この門は残りました。黒海鼠漆喰の壁で、他の建物とは意匠が違います。この門の復元と同時に金谷出丸(現在の尾山神社)とを結んだ鼠多門橋も復元されました。尾山神社側には二の丸にあった門が移築されています。 2024年04月訪城 4月6日の城の日に訪城しました。桜は満開とはいかず、五分から七分咲きという感じですが、城と桜はいいですね。石川門櫓、三十間櫓内部にも入ってきました。さらに、中村神社にある二の丸にあった舞楽殿が移築されているのを見に行ってきました。外観的にはイマイチという感じですが、内装は往時は豪華であった装飾天井などが見られます。 金沢城は現存建物も残り、櫓や門が多数復元され、石垣も時代毎の違う積み方を広範囲で見ることができ、百阮x石垣や数寄屋敷石垣、石川門の南面石垣などには多数の刻紋(刻印)が見ることができるため、区域も広く、一日金沢城にどっぷり漬かっていることができますね。 |
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天文十五年(1546年)に本願寺の北陸の拠点として金沢御坊が創建されました。天正八年(1580年)に金沢御坊は柴田勝家の攻撃で陥落し、佐久間盛政が入り大改修し尾山城としました。天正十一年(1573年)には能登小丸山城より前田利家が入り、以後前田氏の居城なりました。当初は尾山城・金沢城どちらの呼び方もされたようですが、三代利常の時代に金沢城で定着し、この頃に近世金沢城も完成したと考えられます。 |
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いもり堀側石垣、いもり坂・薪の丸石垣 |
玉泉院丸石垣 <色紙短冊積石垣> |
戌亥櫓・極楽橋・鉄門周辺〜東丸・本丸下 |
大手門〜新丸〜河北門まで |
二の丸北面石垣・土橋門石垣周辺 |
数寄屋橋門 |
百阮x沿いの石垣刻印(刻紋) |
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