金沢城−2
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石川門 現存 金沢城の搦め手としての門で一の門が高麗門、二の門が櫓門、右回りの内枡形虎口となってます。一の門を入ると正面、及び櫓門サイドは切り込み接の石垣ですが、左手の石川門櫓側は野面積みの石垣で、刻印(刻紋)が多数残ります。この違いは江戸期の改修のためとのことです。 2024年、櫓内部に入ってきました。 橋爪門・続櫓・五十間長屋(櫓)・菱櫓 2002年に二の丸に復元された櫓群です。ちょうど大河ドラマの「利家とまつ」の頃でした。開館した時に入りましたが、その後は入ってません。 ほぼ忠実に復元された木造の復元建物です。五十間長屋の窓ですが、三の丸側は一階と二階の窓が互い違いになり、二の丸側は同じ位置にあります。これは三の丸側は死角を無くすため、二の丸側は意匠として見た目を良くするためだそうです。2024年現在、二の丸御殿復元のための発掘調査、工事がされています。 河北門 2010年に復元された櫓門です。大手門である尾高門から新丸を経て主要部である三の丸に入る実質的な正門です。 三十間長屋(櫓) 現存 金沢城では多聞櫓を長屋と称していたようです。三十間長屋は幕末近く<安政五年(1858年)>に再建され、幕末は武器庫として使われたようです。2023年には屋根の全面吹き替えなどの修理が完了しました。2024年、内部に入ったんですが、天井の木組みが独特の複雑さで面白いです。また、出窓がすべて西側(玉泉院丸側)にあり、見た目的に重視がされている感じで、城内側は出窓も無く、質素です。この出窓、地面からさして高いところにあるわけでないのに石落とし風に出窓の床が開閉できるようになってます。「これって、城外側に配置した兵に対して鉄砲等の供給をしやすくするためかな?」って城友が言ってましたが、中井教授の見解は鉄砲を斜めに撃つためだそうです。はたしてどうなんでしょう? 鶴丸倉庫 現存 東ノ丸附段にある土蔵で武器庫であったようです。 嘉永元年(1848年)の建設との事です。明治以降は軍が使用していたようです。 玉泉院丸庭園 2015年に庭園、周囲の石垣が復元整備されました。庭園の作庭は藩主前田利常の時代、寛永十一年(1634年)頃から始まったようです。玉泉院は二代藩主利長の正室で、玉泉院の屋敷があったところで、玉泉院が亡くなった後、庭園整備されたものです。ここには特殊な石垣があります。「色紙短冊積石垣」と言われる長方形の石材を縦に積んだり、色が違う石を積んだりして見せる石垣になっています。防御とかは考えてませんね。 鼠多門 2020年に復元されました。玉泉院丸と金谷出丸(現:尾山神社)を鼠多門橋で繋いでいます。特徴としてはねずみ色のなまこ壁(黒漆喰)になってます。鉛の多い黒漆喰はそのうち白くなっていくそうですが、なんで最初は黒なんだろ? 尾山神社 往時は金谷出丸でした。現在は、ステンドグラスがはめ込まれた山門のある尾山神社になってます。 若かりし時の前田利家像と利家の兜のモニュメントがあったりしますが、二の丸にあった門が移築されています。 いもり堀 2010年に復元された堀です。 この面の本丸下石垣は明治以後の見直しが多いです。 中村神社 金沢市中村町15 ここの拝殿は二の丸にあった舞楽堂が紆余曲折を経てこの神社の拝殿として移築されているものです。外観的にはよくわかりませんが、中に入ると、拝殿と本殿が一体化しているタイプの神社で、拝殿側が移築です。天井の文様や欄間が往時の豪華さを残していました。 また、近くの大蓮寺には宇喜多秀家と豪姫の供養塔があります。 【おまけ】 兼六園 ご存じ日本三大庭園のひとつです。 有事は金沢城の出城になったんでしょうね。 ひがし茶屋街 江戸期の建物が残る街並みです。にし茶屋街 石垣群のページ⇒⇒☆☆ |
橋爪門・五十間長屋(櫓)・菱櫓 |
河北門 |
鶴丸倉庫 |
三十間長屋(櫓) |
玉泉院丸庭園 |
鼠多門 |
金谷出丸<尾山神社> |
いもり堀 |
石川門 |
移築舞楽殿<中村神社> |
兼六園 2014年07月 |
ひがし茶屋街2017年03月、06月 |
にし茶屋街 2017年04月 |