越中 / 増山城



ファイルNo0020

越中守護代神保氏の本城  越中三大山城(守山城・松倉城・増山城)のひとつです。

                   三の丸と安室屋敷の間の空堀   

@ ますやまじょう 
  別名  和田城
A住所:砺波市増山町
B目標地点:和田川ダム
C形式:山城  D比高:120m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・空堀・石積み・井戸
    ・堀切・石碑・説明板

G時代/人物:創建 南北朝期〜戦国期
      /桃井氏〜神保氏〜佐々氏
H満足度:
凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  和田川ダムより20分

J撮影・訪問時期:2001年08月・2011年03月
         2015年06月・10月・11月 12月

  

道案内 ←和田ダムからの登り口

北陸自動車道砺波インターを下り、砺波インター前の信号で右折し、200m先の太郎丸(国道156号線との交差点)の尊号を直進します。約1.6km先、高道の信号で右折し国道359号線に入ります。約6km先の交差点で左折し県道11号線に入ります。1.6km先の権正寺の信号で右折し県道72号線に入ります。約1.4km先の宮森新の信号です。(左折して増山集落に向かい、集落より和田川ダムに向かいます。) この信号を直進して100m先を左折して道なりに約2.4km先が和田山ダムの手前の増山城駐車場です。和田ダムから登れます。車の場合はここからがいいと思います。七曲り道からでも登れますが車だと停めにくいです。 

訪城コメント

城跡はハイキング道も整備されています。和田ダムより少しだけ急な山道を登ると七曲道と合流して一の丸に至ります。ここの城は主郭が一の丸ではなく、単純に麓に近いほうから一の丸、二の丸と言います。(江戸期の古図がそうなってるようです。) 主郭に当たる郭は二の丸です。二の丸下には石垣(佐々氏支配時代のもの)がありますが、痕跡程度のものでした。二の丸には虎口と奥まったところに鐘撞堂と呼ばれる櫓跡があり、東側には土塁も巡ります。二の丸北側には安室屋敷があり、ここも郭は広く土塁も明瞭です。二の丸と安室屋敷の間の堀切は見応えあり案す。それを抜けると馬洗い池で、この周辺の空堀・切岸も見応えあります。三の丸・足軽屋敷(家臣屋敷)を経て、上杉氏に攻められ落城時に神保夫人が入水した井戸があり さらには増山城の支城の亀山城に至ります。全体には空堀・堀切、土塁などはよく残ります。 畝状竪堀も残っていますが、こちらは草木が多くてよく判らないが実感です。

2011年再訪
2009年に国史跡に指定され、間伐などされて整備されました。大きな堀切、空堀、郭の土塁など見やすくなっています。

2015年再訪
前回見られなかった無常の先の畝状竪堀など見てきましたが、まだ、城域すべてを廻る事ができません。草木が邪魔だぁ・・・^^;


和田ダムからの登り口
歴史

築城された時期は定かではありません。鎌倉末期にはなんらかの城郭が存在したと思われますが、通説では、南北朝に二宮円阿が築城して和田城としたとされます。戦国期には、増山城を支城とした神保慶宗が、一向一揆と結び、永正三年(1506年)に増山城のそばの般若野<芹谷>の戦いで、長尾能景(謙信の祖父)を討死させたとされます。永正十七年(1520年)には能景の子の為景は、新庄城(富山市)の戦いで神保慶宗を自刀に追い込みましたが、慶宗の子の長職は、神保氏の勢力を回復し、天文十二年(1542年)には富山城を築いて増山城を詰城としました。この年、長尾為景は栴壇野の戦いで討死したとされ、増山城近くに為景を葬ったとされる塚があります。長職は松倉城の椎名氏を圧迫したため。永禄三年(1560年)、椎名氏の支援に動いた長尾景虎(為景の子、のちの上杉謙信)は越中に侵攻したため、長職は、富山城を放棄し増山城に立て篭もり、その後に和睦しました。しかし、永禄五年(1562年)、再び上杉輝虎(謙信)に攻められ、増山城は落城し、再び上杉氏と和睦し神保氏は上杉氏に従いました。永禄11年(1568年)頃、神保氏は家中が上杉派と反上杉派に分かれて内紛を起こし家中は疲弊しますが、長職は、親上杉でありましたが、元亀二年(1571年)に一向一揆と和睦し、反上杉の立場となり、一向一揆衆が増山城に籠ったとされます。元亀三年(1572年)に長職が没し、二男の長城が後を継ぎましたが、天正四年(1572年)、上杉謙信に三度目の増山城を攻められ落城しました。城主の長城は以後は消息不明であり討死したのではと考えられます。上杉氏が領有した増山城は、上杉氏家臣の吉江宗信が守将として入りますが、天正九年(1581年)、織田信長方に攻め落とされ、天正十一年(1585年)には佐々成政が越中を平定しました。天正十三年(1585年)の加越緊張時に増山城を改修されますが、豊臣秀吉に敗れ、以後、増山城は前田氏が領有し、中川光重、山崎長鏡が城代を務めましたが、元和元年(1615年)、一国一城令で廃城になったとされます。

古本屋で有名な東京の神田神保町は神保氏の子孫が徳川氏旗本として残り、その屋敷があった場所です。

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増山城訪城記⇒⇒◎◎◎
和田川ダムからの登り道(ウラナギの道)途中に見える竪堀・堀切
朝日が照る安室屋敷と二の丸の堀切遠望
安室屋敷と二の丸の堀切
二の丸鐘楼堂から堀切越しに安室屋敷を見る
     二の丸(本丸)      2011年 二の丸と安室屋敷の間の堀切(切通)
増山大橋より城跡遠望         城内で遭遇した野生の鹿2011年
城内で遭遇した野生の鹿2015年10月   城内で遭遇した野生の鹿2015年11月
現地案内板より
神保夫人入水の井戸
一の丸から見える麓の三日月状の土塁
安室屋敷と三の丸の空堀
2001年撮影
二の丸(本丸)南側の空堀                      馬洗い池 
神保氏婦人入水の井戸                     二の丸(本丸) 



増山城近くに上杉方と一向衆との戦いがあった栴檀野(般若野)の合戦跡があります。ここに長尾為景(上杉謙信の父 戦死したのは上杉能景<為景の父>という説もあります)の戦死の塚があります

近くの城・関連の城:亀山城 富崎城 富山城