この訪城記は、ある本に原稿として書かせていただいた内容に加筆、訂正させていただいたものです。
写真は2011年、2015年(4回分)のものが混在しています。
【歴史】 下記記述は、ある本に原稿として書いた内容に加筆訂正したものです。 築城された時期は定かではありません。鎌倉末期にはなんらかの城郭が存在したと思われますが、通説では、南北朝に二宮円阿が築城して和田城としたとされます。戦国期には、増山城を支城とした神保慶宗が、一向一揆と結び、永正三年(1506年)に増山城のそばの般若野<芹谷>の戦いで、長尾能景(謙信の祖父)を討死させたとされます。永正十七年(1520年)には能景の子の為景は、新庄城(富山市)の戦いで神保慶宗を自刀に追い込みましたが、慶宗の子の長職は、神保氏の勢力を回復し、天文十二年(1542年)には富山城を築いて増山城を詰城としました。この年、長尾為景は栴壇野の戦いで討死したとされ、増山城近くに為景を葬ったとされる塚があります。長職は松倉城の椎名氏を圧迫したため。永禄三年(1560年)、椎名氏の支援に動いた長尾景虎(為景の子、のちの上杉謙信)は越中に侵攻したため、長職は、富山城を放棄し増山城に立て篭もり、その後に和睦しました。しかし、永禄五年(1562年)、再び上杉輝虎(謙信)に攻められ、増山城は落城し、再び上杉氏と和睦し神保氏は上杉氏に従いました。永禄11年(1568年)頃、神保氏は家中が上杉派と反上杉派に分かれて内紛を起こし家中は疲弊しますが、長職は、親上杉でありましたが、元亀二年(1571年)に一向一揆と和睦し、反上杉の立場となり、一向一揆衆が増山城に籠ったとされます。元亀三年(1572年)に長職が没し、二男の長城が後を継ぎましたが、天正四年(1572年)、上杉謙信に三度目の増山城を攻められ落城しました。城主の長城は以後は消息不明であり討死したのではと考えられます。上杉氏が領有した増山城は、上杉氏家臣の吉江宗信が守将として入りますが、天正九年(1581年)、織田信長方に攻め落とされ、天正十一年(1585年)には佐々成政が越中を平定しました。天正十三年(1585年)の加越緊張時に増山城を改修されますが、豊臣秀吉に敗れ、以後、増山城は前田氏が領有し、中川光重、山崎長鏡が城代を務めましたが、元和元年(1615年)、一国一城令で廃城になったとされます。 |
現在の城の遺構は、佐々成政の時代に改修された姿が現在見る遺構とされます。大手道は定かではないようで、現在の和田川ダムかたの登りであるウラナギの道、一の丸の西側から登る七曲りの道、無常(郭)の西側からの道が考えられるとの事です。現在城跡への登り道は、ウラナギの道、七曲りの道、和田川ダムから北側を迂回する山道を進み、北側の亀山城への登城口の反対側、小判清水のところから登り、神保夫人入水井戸を通って主要部に向かう道の3ケ所です。和田川ダムの手前に駐車場と増山陣屋と命名された休憩所が建てられており、内部には資料が展示されています。
ウラナギ道登城口は、模擬冠木門が建てられています。沢筋を登り道で安土城の大手道を思わせる道ですが、戦国の城にこの大手は無いのではと思ってしまいます。
七曲道登城口は、赤い城山大橋を渡った先にあり、名前の通りジグザクの山道を登ります。なんとなく、一番城道らしい感じはします。
北側からのルートは亀山城との連絡道としては昔からあって搦め手道だったんでしょう。 無常からの道は現在は明瞭な道はありません。
ウラナギ道を登ると坂の途中の両サイドに大きな堀切が見えてきます。馬之背ゴと呼ばれる郭の北側尾根、一の丸の北側尾根を隔てる堀切ですが、この堀切ラインは、安室屋敷の北側尾根、御所山屋敷の北側までほぼ一直線に堀切が尾根毎に連なり、北側を防御しています。
ウラナギ道の坂の途中に見られる両サイドの堀切です。するどく落ちる竪堀、遠くからでも明瞭な堀切です。
馬之背ゴ(郭)はウラナギ道の西側尾根上、七曲り道の北側上にあたり、登場道を防御する重要な郭になります。土塁の西側斜面には竪堀も1条確認できますが、竪堀はもう1条、一の丸の西斜面にも確認でき、両方で七曲道を塞ぐような感じになっており、七曲道から来る敵が横移動するのを防御している感じです。
一の丸下です。 ウラナギ道、七曲道はここで合流します。
b) 主要部
一の丸/ 主要部の西を固める郭です。 郭としては平坦地を持つだけの単純な感じはしますが、主要部の中では西側の眺望がいい郭です。
一の丸の東下には又兵衛清水と呼ばれる湧水の箇所があります。山名又兵衛が発見したのでこの名が付いたとされます。この湧水、富山名水百選のひとつでもありましたが、現在は、過去の豪雨で斜面が崩壊し湧水の水源が断たれたようで湧いていません。
一の丸の南側、二の丸の北側は鞍部となっていて、又兵衛清水脇の道からの虎口になっています。そこには佐々時代に石垣が築かれたようで、石垣跡の表示がありますが、現在はどれが石垣なのかよく判らないくらいの状態です。佐々がさっさと積んだんで、さっさと崩れたようで・・・^^;
二の丸/ この城の実質の主郭です東西に大きな長方形の郭で、東側面には土塁が巡り、一番奥まったところに鐘楼堂と言われる櫓台があります。郭中央には神水鉢と言われる窪みのある石があります。用途は不明のようですが、手水鉢、旗立台などの諸説があるようです。 説明板にはこの穴の水は枯れず、ここに映る月影で時刻を知ったと書かれてます。
無常/ 二の丸の西側、南西側にある郭群には無常(郭)や鐘搗堂(かねつきどう)、あるいは、J郭、K郭などの平坦地があります。郭名は宗教的な名称であり、一向一揆が支配した際に拡張された地区であろうか? また、鐘搗堂南側の堀切は、K郭南側の堀切の延長線上にあり、J郭とK郭北側の間にある堀切と平行に構築され、K郭とその周辺の郭、鐘搗堂を防御しています。さらに、鐘搗堂西側にある畝状竪堀群は越中では珍しい遺構と言えると思います。北陸では、上杉氏の城、一向一揆の城には存在が多く、この畝状竪堀は増山城が神保氏から一向衆、または、上杉氏の支配になってから構築されたものではないかと想像します。
二の丸から二の丸の北側小道を廻り込んでいくと安室屋敷との堀切に至ります。
安室屋敷(あじちやしき)/ 二の丸の北側にあり、南北に長い長方形の郭で、北側、東側に土塁が築かれています。特に東側の土塁は高く、二の丸の鐘楼堂と相対している感じです。安室とは隠居した者の住居という意味だそうです。ただ、古い石碑が郭内に倒れてますが、その石碑は「本丸」と刻まれていました。 標高的には二の丸の方が高く、鐘楼堂から見下ろす位置に安室屋敷があるので、ここが本丸(主郭)にはないでしょうね。
三の丸と馬洗池/ 主要部の東端にあるのが三の丸です。低い土塁が三方を巡りますが、変化の少ない大きな郭です。馬洗池は、二の丸、安室屋敷、三の丸の間にある池で水源地です。増山城は山中に湧水、池があり、水には苦労せずとも籠城ができたようです。 安室屋敷と三の丸の間に大きな横掘があり、各郭の独立性を保ちます。その先、三の丸北側から東側にかけて横掘が巡りますが、草木が多く遺構は確認しずらいです。安室屋敷の北側にも長い堀切があり、東端には土橋と思われる盛り上がりがありますが、この辺も草木が多く遺構を確認しにくい感じです。 三の丸の北側を堀に沿ってU字に登って行くと御所山屋敷で、この北側にも長い空堀があります。ここまでが主要部でしょうか。
御所山屋敷を過ぎると山屋敷群の地域に入ります。まずは足軽屋敷とある広い郭を通ります。ここは、兵站基地であったようですが、名称通りなんでしょうか? この東側のピークを長尾山と呼ぶらしいです。 ここから下りると道の右に池ノ平屋敷、道の左手に神保夫人入水の井戸と呼ばれる井戸があります。この井戸は、増山城が落城の際、神保夫人が侍女数人と敵に挑み、六十人を打ち取った後入水した井戸とされます。実際には井戸を調査した結果、人骨は出なかったようで、それだけ激戦であったという事なんでしょうね。なお、池ノ平屋敷は虎口が内桝形状になってました。このあたりは、池ノ平屋敷の東側に七ツ尾山屋敷などの郭群が存在しますが、草木が多くてなかなか全部は見られません。
ここを過ぎると亀山城の登り口に至ります。
この城跡は過去四度登って三回カモシカに会いました。
増山城を周回する増山林道の外側、主要部の南東側にも赤坂山屋敷など防御する郭がありますが、ここも草木が多くてなかなか入りこめません。 また、増山城の近くには、一向一揆と戦って討死した長尾為景(謙信の祖父)の塚と伝承される塚があります。そのそばの個人宅には長尾能景(謙信の父)の討死した塚もあるとされ(これには諸説あり)、謙信は相当に増山城には恨みがあったようですね^^; また、ダム湖である増山湖に架かる城山大橋という赤い橋の手前には増山城城下町の土塁がわずかに残っています。
増山城の激戦は何時だったんでしょうか?上杉はその時どこから攻めたんでしょうか? 神保夫人は誰の奥さま? 私は畝状竪堀が上杉、一向衆の頃の遺構であり、無常下からの攻め口が防御的に手薄であったから、後から構築されたのではないかと思ってます。そうなると天正四年(1572年)の上杉謙信の三度目の攻撃の際、その時の城主の神保長城は、その後消息不明になってますので討死したと考えられており、この時が一番の激戦で、神保夫人は長城の正室ではないでしょうか? 攻め口は無常にあった登城口から攻めたんじゃないだろうか? ただ、足軽屋敷のそばのピークは長尾山と言うらしいです。長尾=上杉・・・かも^^; そうなると搦め手から攻めて、ここに陣をはって対峙し、最後の攻撃をしたんだろうか?? そんなこんなを妄想しながら城巡りも面白いです。