越中 / | 松倉城 |
ファイルNo0003 |
椎名氏本城 越中三大山城であり富山県最大の山城跡
@ まつくらじょう |
道案内 | ||||
北陸自動車道魚津インターを下り料金所を出て県道52号線を左折し進みます。2.1Km先の石垣の信号で右折し新川広域農道に入ります。(滑川インターよりは南下し県道137号線に入り、「有山」の信号にて新川広域農道に入り進みます) 新川広域農道の観音堂の信号で魚津インタ側から来ると左折し県道33号線に入ります。3Kmほど行くと「鹿熊地区」の松倉小学校前を通過(ここに案内板がありここよりも行けます<小菅沼城経由>)、 松倉小学校より1.5Kmで角川ダムに至り、ダムより300m先の地点に松倉城林道登り口があります。道案内標識に従い3Kmほど山道を登ると本丸下(大見城平の上)まで車にて行け、駐車場もあります。<駐車可能10台程度> |
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訪城備忘録 | ||||
駐車場に縄張り図付周辺地図、城主石碑などがあります。ここより正面を登るとすぐに二の丸と本丸を隔てる堀切付近にでます。右手に進むと本丸です。本丸下の腰郭には石垣が確認できます。本丸よりは富山湾まで見渡せ、眺めは最高であります。本丸の南に堀切を隔てて八幡堂(郭)があります。本丸から北側へは二の丸・三の丸・四の丸と山上に続いていますが、削平地は藪状態、土塁が確認できますが歩き回るというわけにはいきません。さらに北側は堀切を隔て獄門原に達します。駐車場より車道とは別に降りる道があります。ここを10分ほど降りると大見城平に着きます<先ほどの角川ダム登り口そばに大手道登り道がありまして徒歩で登るとここに到達します。>この大見城平は家臣団の屋敷跡との事、けっこう広い空間です、土塁・空堀が確認できます。また、石の門よりの大手道、大見城平の虎口に石垣が確認できます。それ以外の石垣や大見城平の北側にある諏訪平(見張りの郭でしょうか?)や本丸より大見城平までの多くの曲輪については夏場は藪状態でなかなか入り込めません・・・^^; 2003年に訪城した際、大見城平で鹿に遭遇しました。鹿は何箇所かの城跡で見て居ますが(富山県ですと城生城・中地山城)、普通は私の存在に気づくと一目散に逃げてしまいますが、ここの鹿は私を睨みつけながら凛とした姿で動きませんでした。この松倉城で遭遇した鹿はりっばな姿で、こちらが恐縮して大見城平から退散致しました。 いったん松倉城を下り角川ダムを過ぎた集落より左側の山手に入ると石の門があります。石は河川の丸石を積み上げてあるため 何か当時のものという感じがしにくいのですが、松倉城の中では一番大きな規模の石垣でした。 2011年06月 立ち寄って見ました。夏場で草木が伸びていたため、整備されている主郭と二の郭のみで退散しましたが、説明板がまた増えていたですな。 2015年11月 雨の中再訪しました。三の郭、四の郭の堀切など確認しました。 |
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松倉城は南北朝期に普門(井上)利清によって築かれたか椎名孫八によって築かれたなど はっきりはしていないようです。越中守護が畠山(持国)氏の時代に神保氏・遊佐氏と共に守護代となり椎名氏は新川郡を支配しました。応仁の乱で畠山氏が衰退した際に独立しようとしますが長尾氏に攻められ以後長尾氏に属します。天文の頃 神保長職(増山城)が富崎城・富山城を拠点に新川郡に進出、椎名長常は圧迫されます。永録に入り再び神保氏と争います。椎名康胤は上杉謙信に援軍を求めたため、神保長職は本拠地増山城をも追われ増山神保氏は滅亡します。永禄11年(1568年)椎名康胤は武田氏に寝返り上杉氏より離反します。上杉謙信は松倉城を攻め椎名康胤を追放、康胤は遊佐氏の蓮沼城(小矢部市)で生涯を閉じ椎名氏本流は絶えます。<椎名氏の武田氏への寝返りは武田信玄上洛戦(1572年から1573年(天正元年)〜信玄の死去で果たされず)に対して上杉謙信の動きを封じるため武田信玄の策略の一環と言われています。> その後の松倉城は上杉氏の家臣の河田氏などが守り、織田信長の越中侵攻(柴田勝家・前田利家・佐々成政の魚津城攻めが有名)を経て、佐々氏の支配では魚津城が新川郡の中心となり松倉城の存在は薄れます。江戸期は前田氏の持城(魚津城からの城番管理)となりますが、慶長年間または元和の一国一城令て廃城となったようです。 (資料より) |
2015年11月撮影 |
2011年6月撮影 |