近江/ | 多喜城 |
ファイルNo0868 |
@ たきじょう |
道案内 | |||
国道1号線で湖南市(旧甲西町)方面から来ると、西名阪という信号の50m先の信号で右折し甲賀水口中心部に入ります。県道549号線を進みすぐの本綾野の信号で右折して水口町市街地(現:甲賀市)を抜けます。近江鉄道を越えて600m先の内貴橋北の信号で右折し県道122号線(旧:国道307号線)に入ります。道なりに1.5Km先の三大寺北の信号で県道4号線と合流し進みます。庚申口の信号で国道307号線を横切りさらに県道4号線を進みます。庚申口の信号より約9Km先の大原市場の信号で右折し県道775号線に入ります。、すぐJR草津線を渡り次の道を左折します。200m先の大きめの道で2本目を右折し杣川を渡り中出のバス停を過ぎ、道なりに300m行くと右手に祠(若宮社)があり、ここを右折します。100m先の左手に山に登る石段があります。(登る口に滋賀県教育委員会の「文化財を大切に」という石柱が立っています。) これを登ると墓地があり、この墓地の背後をすこし登ると城跡の堀切に出ます。堀切の左手が主郭です。 |
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訪城備忘録 | |||
墓地周辺は寺跡だったようです。墓地の北側(城跡とは反対側)も10mほどの高台になっていて、頂部は削平された感じで櫓台のような気がします。墓地より南側に20mほど登ると堀切状の箇所にでます。この左手の高まりを越えると主郭の削平地です。高まりは土塁で、主郭をコの字で巡ります。高さは5mほどあり、山肌を削り込んで作られているようです。主郭内は幅50mほどありそうで、奥行きは30mほどありそうですが、竹薮状態で見通せません。北側は崖になって落ちています。この城は私が持っている資料の縄張図では多喜北城になります。滝公民館前に設置されている滝の史跡案内板では多喜城になります。どちらが正解なのかわかりませんですが、名称は史跡案内板に準じました。「多喜城」という呼称が本城を意味するとすれば、ここの城より多喜北城の方が本城らしい感じがしますが、墓地まで城域とすればこちらのほうが大きな城になるため こちらがやはり本城だろうか?。多喜北城はこの多喜城の南東側にあります。 |
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多喜城は鎌倉期中頃(1280年前後)に多喜彦太郎家継によって築かれたと伝えられます。家継が多喜氏の祖と言われています。 多喜氏は甲賀53家の内の21家であり、伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つと伝えられます。 (中村一氏は多喜氏の出身とされます) |