近江 / 黒川氏城



ファイルNo0837

無名ながら規模の大きな城跡

                 主郭虎口石垣   

@ くろかわしじょう 
  別名  −−−−−
A住所:甲賀市土山町鮎河
     旧:甲賀郡土山町
B目標地点:

C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀・堀切・石碑・説明板
G時代/人物: 戦国期/黒川氏・羽柴氏
H満足度:
凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  県道沿いにある説明板のところより15分

J撮影・訪問時期:2004年03月・2008年08月 
         2014年6月・12月・2016年6月
         2017年08月 2018年08月 他


  

道案内   ←城跡

国道1号線の猪鼻の信号を北に入り県道507号線を進みます。この県道は鈴鹿スカイラインに向かう県道です。県道は1.5Km先で左折となり約3Km先で県道9号線と合流します。この交流点より県道507号線側500m手前に説明板が立っています。ここから20mほど急な坂を登り、その先、尾根を進みますと城域です。
あるいは鰄川(うぐいがわ)沿いからフェンスに囲まれた水田のゲートから山すそまで行き、次のフェンスから山に入ります。 

 ←北側フェンスゲートの位置 ←説明板の位置・この裏手から登ります。
訪城備忘録

この城跡は十回ほど行ってますが、最初に訪城した時は、「なんじゃあ こりゃ」という驚きでした。とても甲賀の一豪族が単独で築城した城の規模ではありません。主郭は周りより20mほど高台になり、70m四方に近い大きさで内側は総石垣であり、北側と西側にある虎口周辺も石垣で構築されています。西の虎口からの大手道も石段・石垣作りです。主郭南北には大きな堀切があり、南側はさらに南にもう一つの大きな堀切を持ち、その南には今は祠がありますが、出丸的な郭があります。主郭下南西部には大きな敷地の削平地が広がります。複雑な縄張りを持つのは北側です。屋敷跡なのか横掘と土塁で区切られた複数の郭が存在し、その大きさは50m四方程度あります。特に、主郭下北西部にある郭は平虎口が明瞭で石垣も残り、郭を巡る高い土塁も明瞭です。中央の堀には石畳であったような痕跡も残ります。いずれにしてもほとんど無名の城ですが、これだけの規模・縄張りを持ち、遺構としても明瞭に残っているのは驚きです。黒川氏は早くより織田氏に従い、この城が甲賀の統括基地のような存在ということらしいですが、謎は多いと言う事です。土山城同様、小牧長久手の戦いの際の羽柴(豊臣)氏方の兵站地で合った感じです。

黒川氏城のある山の北側、野洲川の支流の川沿いは桜の名所です。4月は大混雑ですが、とても綺麗^^V

2016年6月に再訪しました。城域は間伐され、新しい標識、説明板が設置されていました。それによると主郭周囲の石塁は江戸時代に改修された可能性があるとの事です。主郭土塁内部側面に雁木と呼ばれる石積みになっており、これは近世城郭の技法であり、祭礼等の施設でも構築されたんでしょうかね。

主郭下城址碑
歴史

永禄年間(1558〜1569年)に黒川玄蕃佐がこの山に築いた城とされますが、現在の遺構は天正十二年(1584年)に小牧長久手の戦いの前哨戦として北伊勢を攻めるため、羽柴秀吉勢が築城したとされます。黒川氏は守護六角氏に属し、長亨・明応の頃(1487〜1501年)にしばしば戦功をたてます。黒川久内は、長亨の乱(1487年)の功により黒川・黒滝を領し、以後子孫が世襲しました。(この当時は黒川城?)黒川玄蕃佐に至り、黒川氏城を築城し山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を支配し、子の八左衛門が継承しましたが、天正十三年(1585年)に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除く地域は没収され城は廃城となりました。 黒川氏はその後徳川氏の旗本となり、元和八年(1622年)に主郭周囲を改修した可能性があるとの事です。<現地案内板より 若干加筆>

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大手筋辻屋敷上の堀切
主郭を見上げる
主郭への石段遺構
主郭内雁木と呼ばれる石垣
主郭北側土塁上
主郭より南下堀切を見る
主郭北側虎口
主郭南側堀切
主郭南側堀切
主郭を取り巻く堀
主郭南の離れた堀切
現地案内板より
城跡遠望
大手道
大手道辻屋敷から見上げる
  
主郭北西下(大手筋の頂部)の郭の虎口
主郭北西下(大手筋の頂部)の郭の虎口と石垣(郭内から)
主郭北側堀
主郭西下堀
桜の名所
野洲川支流の桜の名所
桜と後方が黒川氏城の山                     後方は大河原氏城
主郭虎口手前城址碑と崩れた石垣

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