近江/ 大溝城



ファイルNo0709

往時の水城も今は天守台の石垣が残るのみ

                        天守台石垣    

@ おおみぞじょう 
  別名 
A住所:高島市勝野
    旧:高島郡高島町

B目標地点:JR高島駅
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:畑地・宅地

F遺構等:天守台石垣・碑・説明板・惣門
G時代/人物: 戦国期〜江戸期
         /磯野氏・津田氏・分部氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分

J撮影・訪問時期:2000年12月・2006年05月
 2016年11月・2018年05月・2018年10月

  

道案内 

琵琶湖の西岸、国道161号線を琵琶湖大橋のところから北上すること約25Km地点、琵琶湖に鳥居が建つ白髭神社のところより1.4Km先、国道161号線と高島町市街地に入る道とのY字分岐を斜め左の市街地方面に入り、JR湖西線近江高島駅に向かいます。約1.6km先が近江高島駅口の信号で、県道300号線に左折してすぐが高島駅で、駅の西側の高島病院の裏手側と乙女ガ池の間に城跡はあります。歩いて行くには、近江高島駅口の信号で、駅から歩いてくると右折し、50mほど進んだ路地に右折します。小道は50m先で左折し30m先を右折と、老人養護施設沿いに道なりに進みますと350mほどで天守台のところに至ります。病院や施設に囲まれているため、車では直接そばまでは行けません。
 
訪城備忘録

城跡そのものは天守台のみが唐突に残っています。ただ、石は大きく、堂々としたものです。隅石垣が崩れていたり、それはそれで廃城の趣があります。周辺の池(乙女ガ池)などに当時の水城の面影残します。駅より北側に江戸期大溝藩(大溝陣屋)関連の武家屋敷1軒と総門が現存建物として残ります。総門は令和六年(2024年)に修復復元が完了ています。

2018年10月に三回目の発掘調査現地説明会がありました。本丸と二の丸を繋ぐ土橋の確認、土橋の石垣の石は片方の築石が持ち去れ裏込め石のみしか出土しなかった事、本丸東側の石垣ライン確認では崩された石垣の石が大量に出ましたが、ライン確認までは至らず、この石垣を崩したのは廃城になった時期との見解でした。

城址碑
歴史

織田信長が安土に壮大な城を築いた頃、対岸の高島の地に大溝城が築かれました。この城は琵琶湖とその内湖を巧みに取り込んで築いた水城で、明智光秀の縄張で出来たと伝承されています。この時代、高島郡一円を委ねられていた新庄城主(新旭町)磯野員昌が信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(1578年)に甥(弟信行の長男)の津田(織田)信澄に宛い大溝城主としました。城主になった信澄は高島郡の開発・発展に尽力すると共に、信長の側近として、また織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍しました。ところが、天正十年(1582年)六月二日、明智光秀が本能寺にて謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかり、信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は丹羽長秀と謀って、六月五日にたまたま四国遠征途上にあった信澄を大坂城内の二の丸千貫櫓にて攻め込んだため、信澄は自害しました。 大溝城は解体され水口岡山城に資材が移されましたが、城を中心として形成された大溝の町は、元和五年(1619年)伊勢の上野(三重県阿芸町)より分部氏が入り、陣屋を構え、明治まで続きました。<現地案内板より 高島町教育委員会>

天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣(隅石垣が崩壊)
天守台石垣
  
天守台石垣
  
発掘調査現地説明会から(土橋と石垣)
発掘調査現地説明会から
本丸東側石垣

近くの城・関連の城: 打下城 ※ 大溝陣屋