道案内 ←登城口・駐車場の位置(2006年9月より、入山料が必要です。) |
名神高速道竜王インタを下り、国道477号線を北に向かいます。西横関の信号で右折し国道8号線に入ります。600m先日野川を越えた東川の信号で左折し県道326号線に入ります。4Km先の小船木町の信号で右折し県道2号線(朝鮮人街道)に入ります。1.6Km先中村町の信号を越え、そこより約6Km先の左手が安土山です。
駐車場は市営(広場)と総見寺(少し高台)とふたつあります。2017年9月現在、市営も寺の駐車場も無料です。<但し、トイレは有料> 入山するには大手道入口で700円<2016年2月現在>を支払う必要があります。
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訪城備忘録 |
なんどもなんども足を運びましたが、安土城郭調査研究所の発掘調査と復元で少しつづ変化しました。今は整備を一応終えたようです。麓から現総見寺付近までの大手道の石段はすっと天に伸びるような迫力が有ります。 整備前は総見寺の江戸時代に作られた石垣が大手道を塞いでましたし、今のような幅のある大手道は見ることはできませんでした。発掘整備されて今の形に蘇っています。この大手道は他の城郭のように折れを入れずに本当に途中までまっすぐです。これはこの大手道が天皇をお迎えするための道であったためとのことです。その分、黒金門の桝形門から二の丸付近を経て本丸までは折れが何度も入る道になっています。大手門石垣は2005年に復元されていますが、三つの平虎口門とひとつの桝形虎口門で構成されており、これは御所の門構え(平門)に武士用の門(桝形門)をひとつ加えたものだそうです。大手道両サイドには幾つもの郭がありますが、伝秀吉邸と呼ばれる郭の上段の敷地の北面側石垣や、伝武井邸と呼ばれる郭の北面の石垣はあまり積み直しもされていない当時のままの石垣のようです。また、大手道石段を含め石仏などが転用石として使われている箇所が数箇所あります。二の丸手前にある佛足石も石垣に転用されていたもののようです。
黒金門より本丸までの石垣は石が大きくなり、さらに、天守(天主)石垣付近は高石垣でいっそう迫力があります。本丸の建物は御所の建物を真似た構造になっていたという事が発掘調査でわかってきたようです。やはり天皇をお迎えするための清涼殿だったようです。天守台には穴蔵部分に天守の礎石が並び天守の大きさが想像されます。五層七重の天守と言われていますが、真の形は未だに謎のままです。想像するほうがおもしろいかもしれませんね。搦め手門から八角平・搦め手道方面へは1990年初めまでは出入りできましたが、今は本丸側からは通行止めになっています。全山城郭の安土城ですので、この搦め手側は静かに眠る安土城ということになりますでしょうか。
私のつたない文章でご説明するより一度は訪れて夢の跡を散策され迫力を実感される事をお勧めします。ご参考にこのページの下段に見所写真と案内をリンク致しました。 <追記>2006年9月より安土城は拝観料が必要になりました。(700円<2016年2月現在>) 大手道の麓に無骨な木戸と料金所が設置されました。その木戸がまた狭くて、人が二人並んで通るのがやっとの幅です。当初は500円で今は700円に値上げされました。なんかむかつくのはわしだけ?
見所案内ページ
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黒金門付近
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日本史上で最初の本格的総石垣の城で、最初の本格的天守を持った城と言われています。天正四年(1576年)信長は丹羽長秀を奉行として安土城の築城を開始、天正七年に信長は天守に居を移します。天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変で信長は自害し、六月十三日には信長に謀反した明智光秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に破れ、敗走途中で農民に殺害されたものでありながら、翌14日に安土城は謎の炎上をしてしまいます。(織田信雄が火を放ったとか、明智残党が火をつけたとか言われているようです。)その後一部を修復し、安土城は存続したようですが、天正十三年(1585年)に羽柴秀次(豊臣秀次)が近江八幡城を築城し、安土の町を八幡に移転し安土城は廃城になりました。
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