近江/ | 小堤城山城 |
ファイルNo0688 |
野洲・栗太郡内で最大の山城
@ こづつみしろやまじょう |
道案内 ←山頂 | |||
名神高速道栗東インタを下り国道8号線を近江八幡・彦根方面に進みます。野洲川を越え、野洲市小篠原の信号を越え、希望が丘公園入り口の陸橋を越えて200m先右側にある工場への路地に右折します。(「城山」の小さな標識が角にあります。小堤の信号まで行くと行き過ぎです。)右折して林道に入ります。但し、林道にはゲートがあり、入るには森林組合の許可が必要です。(ゲートの鍵は森林組合に連絡すれば鍵を貸してもらえます。) ゲート手前に止めるか、ゲートより500m先で車を止めます。ここに「城山まで900m」の標識がありますが、実際の距離はもっとあるように感じます。林道を山の方へ進むと次に「城山まで600m」の標識のところに至ります。最近林道が新設されていて左右から林道が合流していますが、まっすぐ山に向かって登ります。200m登ると林道はU字カーブになります。この途中から山に入ります(城山登り口の標識があります)。林道はこの地点の先に東屋が新設されていて、ここで止まっています。Uカーブの途中から沢沿いに登って行きます。300m程先に「左:城跡コース 右:尾根コ−ス」の案内標識があります。また、その先の木に小さな「尾根コース」の標識がかかっています。城山にはここを右手尾根側に登って行きます。200mで「城山まで200m」の標識です。ここより尾根道を進みます。あまり人が通らないため道が判りにくいかもしれません。途中、T字風になっている箇所で左手に登って行きます。(右手の道はどこから登って来てるかわかりません。)この後、ロープの張ってある急な斜面の道を登り、巨石を越ると尾根の郭群に至ります。山頂郭には西の急斜面から登って来る道も出来ていましたが、どこからのぼるのかよくわかりません。 東の主要郭群に行くには@「左:城跡コース 右:尾根コ−ス」の案内標識のところで左に入り、すぐに右手に曲がり、段郭を右手に見ながら谷筋の大手道を登るか A山頂郭手前の城跡コースの標識のところで、左折し、斜面の道を下ると上段の郭に至ります。B城山山頂から古城山に向かう南の斜面をロープを使い降りて行き、ロープが無くなったところから左手(北へ)の斜面の藪を通り越すと上段の郭に至ります。この3つのいずれかで主要部に行きます。 写真で道案内はこちら ⇒ 見学コースとしては 登り口から、最初の分岐点で主要部側へ入り、大手道を登って、主殿の郭まで行きます。主殿の郭から東の堀切を登り、東尾根の郭を見て、堀切を反対側に下りて(ここは急坂ですから足元注意)、東端の郭へ行って、そこから上段の郭の大土塁まで登り、上段の郭の虎口を見てから、上段の郭から山頂郭への道を登り、山頂郭まで行きます。西側下の石垣を見て、つぎに設置のロープをつたい南側の石垣を見ながら下り、尾根を進んで古城山城を見学、古城山城から山頂郭に戻り、山頂郭から北の尾根を下りて行き、登り口に戻ります。 |
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訪城備忘録 | |||
旧の野洲・栗田郡内最大の山城です。と書きましたが、今まで何度かこの城を訪れましたが、山頂部周辺しか行っていませんでしたので、城山山頂の遺構を見ててもそんな気はしてませんでした。以前から山頂東側に郭群があるのは資料で知ってましたが、藪状態で入っていませんでした。2007年11月に思い切って入ってみましたら、ほぼ完存する縄張り、大手道、多数の石垣の残存などなどが目の前に現れ、「すごいぞ!小堤城山」と言ってしまいました。「中世の城は山頂中心」に固守してしまい、東側山腹の郭は大した事はなかろうと思っていたのが間違いの元でありました。 さて、城跡ですが、まずは【山頂部】です。 【山頂部】 城山山頂を山頂郭と便宜上呼びます。ここを頂点に北への尾根上に二つ程度の段郭があります。登城道を登って来ると最初に小さな祠があります。ここから山頂郭までの段に石垣の痕跡が残ります。この石の中には矢穴が残っている大石もみられます。また、東側斜面にも石垣が僅かに残っています。<実のところこの斜面を下りると主殿の郭に至りますが急な崖です。一応細いロープがありますが、降りるのはやめておいた方がいいです。私は下から登ってしまいましたが・・・^^; 現在は斜面に上段の郭に降りる道ができています> さらに山頂郭の南面下の斜面(古城山へ下りて行く途中)にはわりと大きな規模で石垣が残っています。この石垣の形状と山腹の郭群の石垣は石の形状が違うように感じます。ここの斜面の石垣は薄い石垣を棒積みされているように見えます。さらに、西側下の斜面(辻町方面へ下りる)にも規模の大きい石垣が残っています。この石垣と南側の石垣とは少し形状が違い、東側山腹の上段の郭の虎口の石垣に似ています。山頂郭を南側へ30mほどの崖をロープを使って降りると堀切があり、そのまま尾根沿いに古城山に行けます。山頂郭の東側の郭は谷からこの尾根までの斜面上を削平して構築されています。(正確にはこの尾根と平行してある上段の郭のある尾根までの斜面であり、上段の郭とこの尾根の間には落ち込みがあります。ただ、ロープで降りたこの尾根の北側斜面にも大石の石垣が残っています。) 【主要部】 大きな郭としては四つあり、便宜上、上段の郭・東端の郭・東尾根の郭・主殿の郭と呼びます。山頂郭からロープで降りた地点から山の斜面に入ります。50mも進むと上段の郭に至ります。郭内は雑木林状態ではありますが、東側に櫓台であったろう大土塁が残ります。その先、櫓台から東側を少し降りたところに堀切(この堀切面には石垣があります。しかし、他の石垣の石とは違い小さな石を中心に築かれており遺構ではないかもしれません)があり、その先に東端の郭があります。この東端の郭は堀切面の石垣以外の他の三面にも石垣が残ります。次に、上段の郭の櫓台の北側という位置に大きな堀切を挟んで東尾根の郭があります。東尾根の郭には主殿の郭から行けます。上段の郭の北側には平虎口があり、ここに人頭程度の石で積まれた石垣が4段10m程度残っています。この平虎口から斜面を10mほど下りると主殿の郭です。この斜面にも石垣が残存していますが、主殿の郭と上段の郭の城道は石段であったようです。主殿の郭はこの城では一番広い郭です。下から来た大手道は主殿の郭の北側下で急な坂を登り、主殿郭下で右手に折れ、さらに再度左に折れて、スロープを登ってこの郭に入るようになっており、大きさ、防御性からも主郭であると思われます。ただ、上にも郭があり、居住性のある郭であるため、戦闘的な主郭というより主殿と言ったほうがしっくりくる感じです。(麓からここに建っていた殿舎を見上げる事を想像するとそんな感じに思えました。) この主殿の郭の北西面下、スロープのところに3段20mほど石垣が残っています。この石垣は上段の郭の石垣より明らかに大きい石を使っています。さらに、主殿の郭の東側斜面から堀切に登れます。上段の郭と東尾根の郭の間の堀切で、いまでも明瞭です。東尾根の郭の北側にも堀切があり、ここに城内で一番姿の良い石垣が残っています。さらに東斜面にも石垣が残っています。東面下の石垣は大手郭の石垣同様の大きな石を使っていて、3段で30mほど残っていました。この位置は木が無かったら麓から遠望できそうで、見せる石垣ではないかと思います。東尾根の郭はその北にも小さな堀切があり、このそばにも石垣(北西面の石垣)が残存しています。この石垣の石は人頭程度で、8段10mほど残存していました。高さ的には城内で一番高く石垣が残っている箇所でした。主殿の郭から登ってきた東尾根の郭の堀切を反対側に降りて行き、途中で右手方向に行くと東端の郭の堀切に至ります。 【大手道】 東尾根の郭から主殿の郭に戻り、主殿前の大手道がクランク状の箇所に張り出した郭があります。この先端は15mほど落差があり、下に大手郭になります。この張り出し郭からは麓側からの大手道が遠望できるはずです。大手道は主殿前から直線的に急坂になっています。別に平行して迂回の道もあります。こちらの道は迂回する分なだらかです。大手道の東の山側には石垣の痕跡があまり無いですが、張り出し郭側には石垣が残存しています。この坂はまことに急です。往時は石段になっていたかなと思います。道幅は5mほどあり、戦国の大手というより安土城の大手道を思わせる堂々さがあります。二本あるこの道は何を意味するのか興味深いです。急坂を下りると道は左に折れ、さらに右に折れます。この所も広くなっていて大手郭というべきか、ここの残存石垣はさらに大きな石で、麓からも遠望できるものであったと思われ、見せる石垣であろうと思われます。ここから一直線に麓に向かって大手道が下っています。その両サイドに5段程度づつ段郭があり、一部は石垣が残存し、大手道沿いにも石垣が散乱していました。この中には矢穴がはっきりわかる長方形の大石が縦に突っ立ったように残ります。どこからか崩れたのか?それとも初めからここにあったのか? 大手道と段郭は両サイドともに石垣で処理された道であったようです。 以上、城内は戦国のそれも六角氏の家臣(地方豪族)の城とは思えない規模であり、石垣の多用された城です。本格的な石垣の城は安土城からと言われています。しかし、この城は安土城以前の築城ですが、石垣が多用されています。六角氏系の城では本城の観音寺城は総石垣と言える城ですし、六角氏の隠れ城と言われている三雲城にも大石を使った石垣の桝形虎口が残っています。ここの城は資料には六角氏の築城に対する関与が指摘されています。ただ、石垣の積み方に違いがあること、尾根の郭と山腹の主要部には年代差を感じること、織田氏の家臣の佐久間信盛も在城していたと考えられる事、さらに、支城にしては規模が大きすぎる感がある事などから、六角系だけでなく、織豊系の要素もあるように感じます。ただ、山腹に主要部があり、主郭背後に石段が上段の郭まで続いているなど、寺の跡という印象は拭えません。元々は山岳寺院だったところなんでしょうね。主要部文献にはほとんど出てこない城であり、遺構のわりに謎の城です。 【訪城履歴】 2016年04月に再訪して見ましたが、間伐や下草の伐採などされ、大手道沿いが見やすくなってました。若干の整備も開始されているようで、崖道の補強などされってましたが、一点残念なのは、大手道の主郭手前、急坂があるのですが、そこは元々石段であったはずで、痕跡は残ってました。しかし、整備でそこは埋められ木の階段になってました。遺構はいじってほしくないなぁが、正直なところです。 2018年02月に寄ってみました。東尾根の郭、東端の郭、上段の郭、大手道、大手道沿い郭などの草刈り、間伐が進んでました。2年もすると主郭前の急坂に設置された木の階段もなじんでましたな^^; ただ、石段があったことは忘れずに。 2019年06月再訪 城跡コース・尾根コースの分岐点に新しい縄張り図が設置され、各郭にナンバープレートが設置され、主郭に向かう大手の両サイド段郭が草刈りもされ、さらにに綺麗になってました。 2023年10月再訪 大きな変化はなかったですが、大手道の主郭手前の急坂から正面に見える主郭北側下の石垣が見やすくなっていたのと、城山山頂部の木々の伐採が進んで眺望がさらによくなってました。 小堤城山城主要部を歩く「すごいぞ!小堤城山城」へ⇒☆☆ |
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文明年間(1469〜1486年)頃に永原氏によって築城されたとされます。永原氏は当初、馬淵氏の家臣として六角氏に従っていましたが、その後、直接に六角氏に従うようになったようです。さらに、織田氏の近江支配時代には野洲郡を領した佐久間信盛も在城したようです。 |
2018年02月 |