近江/ | 三雲城 |
ファイルNo0702 |
六角氏の隠れ城
@ みくもじょう |
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【道案内】 名神高速道栗東インタから国道1号線を甲賀・鈴鹿方面に向かいます。インタより約6Km先の石部口の信号、さらに4.5Km先の吉永の信号で右折し、250mでJR草津線を越え、次の十字路を右折し250m先で左折(旧東海道でトンネルのそばより)し、三雲城・八丈岩の標識に従い住宅地内を進みます。(西往寺横を過ぎ、住宅団地を左、右、L字、左とクランク状に進みます。) 青少年自然道場手前で右側の林道を進み城址碑前まで行けます。 <青少年自然道場の駐車場から山上まで徒歩で20分程度です。> 【訪城備忘録】 林道の城址碑のところより山中に入ります。すぐにY字に道が分かれますが、左手を登ります。(右手は八丈岩へ直接行きます。) 左手のいたるところに石垣が見受けられますが、後世の土止めの石垣です。さらに細い登山道を登り続けますと、右手が大きな堀切、左手に石が散乱している感じのところに出ます。尾根は削平は不完全ですが郭とも考えられます。山頂側を見上げると、切岸が8mほどあり、虎口の外側の斜面上部にあきらかに人口の細工(矢穴)が見える大きな石での石垣が見えます。そちらに向かって登ると大きな石が積み上げられた石垣が残る枡形虎口に至ります。この巨石の石垣にも矢穴の石が最低三か所見られます。 その先、右手の郭はこの城で広く、西側に大きな土塁が横たわり、実質的な主郭と思われます。大きな石積みの深い井戸が残ります。さらに山頂に登りますが、山頂は細いL字状で、下の広い郭に向いて段郭があります。西側下にわりと規模の大きな石垣が残り、反対側にも石垣の痕跡と大きな竪堀と感じる地形となります。 山頂の先は堀切状の下り、その先に低い土塁の残る小さな郭があります。これは見張り郭のようです。また山頂郭から東側端にも郭があります。さらに、城跡から北への尾根先端に八丈岩という奇岩があり、この岩は麓からも望めます。八丈岩手前の大岩には六角氏の刻紋があります。(どうも落書きのようです^^;) 八丈岩は落ちそうで落ちない岩として、受験生などのお参りの対象になってます。 2020年02月訪城 天気も良かったんで寄ってみました。八丈岩付近が「落ちない」という事でけっこう人がおいでで、祈願されてました。城跡は西側斜面の倒木が溜まってしまし、山頂郭西下の石垣や畝状堅堀状の箇所が見にくくなってますが、代わりに、東端の郭は草刈りされて初めて行けました。 【歴史】 築城年代は定かではないですが、応仁の乱の頃以後に三雲氏が築城したと伝えられます。当城は、観音寺城の避難の城と言える城で、六角氏は、観音寺城が危なくなると、この城に亡命し再起の戦いを挑んでいます。永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で観音寺城が落城後も、六角義賢・義弼父子はこの城に逃れ再起を図っています。元亀元年(1570年)に佐久間信盛に攻められ落城しました。三雲成持は、六角氏滅亡後、織田信雄・蒲生氏郷に仕え、この頃に三雲城は大改修され、今見る巨石の石垣などが構築されたようです。三雲氏は江戸時代には1,000石の旗本として続きました。 城の石垣の多くは、天正十三年(1585年)に中村一氏が水口岡山城の築城の際に使用されたとの事です。 |
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枡形虎口外側、北側斜面の石垣と主郭西斜面の連続堅堀 |
枡形虎口と巨石の石垣 |
近くの城・関連の城: 観音寺城
八丈岩と六角氏の家紋 |