飛騨 / 古川城



ファイルNo1085


                  主郭下の郭の城址碑と蛤石   

@ ふるかわじょう 
  別名 蛤城

A住所:飛騨市古川町高野
   旧:吉城郡古川町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・竪堀・土塁・碑
G時代/人物: 室町期/姉小路氏(古川氏)
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓より15分


J撮影・訪問時期:2005年11月

  

道案内  ←登り口    ←城跡

高山市内より国道41号線で来ると、高山市国府町を抜け、飛騨市古川町入り、国道41号線の新蛤橋を越えてすぐを右手に入り戻る感じで県道477号線に入ります。1Kmほど先(高野集落の南側の山)の山の裏手に廻ったところに右折する道がありここを曲がります。道の角に「吉城○○○」という工場の看板があります。右折して200mほどで左手に肥料?工場があり、さらに300mほど行くと右手に廃屋があります。この脇に電柱があり、この裏手に登城道があります。 高野集落側から南の山を見ると尾根先端の一段下がったところに鉄塔が見えます。この背後のピークが城跡です。 

訪城コメント

城跡への道には案内すらありません。当日も登り口がわからず工場の前より直登しました。ネットで教えてもらったのですが、案内が無いとは心無い方が蛤石を傷つけたり荒らしたりするため、地主の方がわざと案内は出さないように行政に要請しているためとの事です。我々の城跡巡りは個人の山に分け入る事もたびたびですから、入山禁止にならないよう節度は必要ですね。近江の小谷城にも「小石ひとつも文化財」という標柱が立っています。

さて、30mほど登ると削平地に出て下からの道と合流しました。この削平地も遺構ではないかと思われます。ここから山道をさらに登ると主郭下の郭に至ります。ここに城址碑と蛤石があります。蛤石はなにか斑点のような模様がついた変わった石でした。この郭に入る手前にL字に虎口があり、内桝形虎口とされます。虎口には石垣が残存していました。また、南側斜面には大きな竪堀がありますが薮で写真には撮れませんでした。斜面には大石が散乱しており、ところどころ石垣の痕跡もあります。古川城の後期は石垣の城であったようで、この石垣は増島城築城時に崩され利用されたとの事です。蛤石のある郭の背後より山頂に向かって段郭が続きます。この最初の斜面にも石垣が残存していました。主郭の西側は一段高くなっていて櫓台だったようです。

虎口と石垣痕跡

主郭を見上げる
一番手前の斜面に石垣痕跡
歴史

築城時期・築城者は定かではありませんが、姉小路氏が分裂した古川氏の本城です。姉小路は家綱が南朝より国司に任命され信包城(向小島城)に居城し、家綱の孫の基綱が再度北朝から国司に任命され小島城あるいは古川城を居城にしたとありますが、応永年間(1394〜1428年)<応永十二年(1405年)頃>に小島氏(小島城)、向氏(向小島城)、古川氏(古川城)の三家に分裂していましたので、定かな事は不明のようです。 大永元年(1521年)頃より三家は争い、これに南の三木直頼が小島家・向家に加担し、享禄四年(1531年)に古川氏を攻めて古川城は落城しました。 弘治元年(1555年)三木直頼の子の良頼は小島氏と険悪となりこれを攻め、この時にも小島城・向小島城とともに古川城は落城しています。永禄三年(1560年)良頼と子の自頼は古川氏を名乗り吉城郡の拠点したともされます。天正十三年(1585年)金森長近の飛騨侵攻で三度目の落城となり、その後、金森氏の持ち城となりますが、増島城築城で廃城になったようです。

【蛤石】  

ここにある蛤石は米俵大の石で、蛤形の紋様があるためそう呼ばれます。元々、雄石と雌石で1対のものだったらしく不思議な力があるとされていたようです。 金森長近が高山城に移そうとした際に、運搬中にものすごく重くなり、また、奇妙な音がするようになったため元に戻したという伝説があり、江戸時代に日照りとなったため、一方の石を川に沈めたところ雨が降り出したという言い伝えがあるそうです。 片方はそのまま城址に置かれていますが、片方だけになったので不思議な力はでなくなったらしいです。 この石は黒雲母トーナル岩質球状岩というもので、こういう石はイタリアのコルシカ島が有名らしく、ナポレオン石と呼ばれるらしいです。この付近では飛騨北部から富山県立山町で見られるとのことです。

 主郭と櫓台              斜面の石垣痕跡
  

  

近くの城・関連の城: 百足城 小島城 向小島城 小鷹利城