飛騨 / | 小島城 |
ファイルNo0422 |
@ こじまじょう |
道案内 ←県道からの曲がり口 | |||
高山市内より国道41号線で来ると、飛騨市古川町の古川消防署前(飛騨警察署そば)から国道をさらに2.1Km進み、中野の信号で右折し川を渡り400m先の古川町杉崎の信号で直進して県道75号線に入ります。700mほど先の県道沿い右側に写真の案内標識(小島城3Kmの標識)がありますのでここを右折します。いったん下り、再度反対側の山に登るとT字になりますのでここを右折(小島城2Kmの標識)し林道を1Kmほど登ると道が二又になっていますので右に行きます(小島城1Kmの標識)。(左はどんどん山に登ります。私は5Km先まで行ってしまいました^^;;) 進むと「○○先生の碑」という所に至り、その先で道が駐車場でこの上が主郭です。 (2Km・1Kmの小島城の標識は撤去されている場合があります。) 徒歩の場合は県道75号線沿いの浄慶寺横の路地を山側に進むと寺の裏手が川で、ここの橋を渡ります。橋を渡り右に50mほど進むと山側に壇がありその奥に墓があります。ここで山に入ります。細い道でつづらを登って行きますと堀切のそばを越えるとN○Kのテレビ施設に出ます。ここからさらに尾根沿いに進みます。途中細尾根になり、最近、砂防堤が麓に作られたものが見えます。ここを越えると主郭背後の郭に到達します。 |
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訪城備忘録 | |||
この城はどうも相性が悪いようです。最初の訪城では道がわからず断念、二度目は林道を間違えて断念、三度目の今回は林道が工事中で通行止めでした。それでもこんどは何時来れるかわからないので徒歩にて登りました。主郭には休憩所というより作りかけで止まったロッジのような建物が建っています。主郭周囲は凹状で、西側に建物が建っている高まりがあり斜面に石垣の痕跡が残ります。東にも櫓台的な高まりがあり、真ん中に一段下がった所の平坦地部分に主殿が建っていたようです。 主郭東側の外側は堀切にて処理されています。西側(主郭の背後)は郭が不明瞭ですが石垣が残っており、資料では内桝形虎口のようです。ここから南側の急な斜面に小郭が何段かあり、ここにも石垣の痕跡がありました。往時はここに登城道があったようですが、いまは道は無くほんとに急な斜面です。西尾根先端部のN○Kの通信施設周囲も郭跡で薮状態ですが土塁の高まりが確認でき、さらに西側には堀切から竪堀に落ちている箇所が明瞭に残ります。 2019年10月に再訪しました。2018年頃に発掘調査されたようで整備が進み、主郭には説明板が設置してありました。主郭西下の石垣が綺麗に出ていました。 |
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築城時期・築城者は定かではありませんが、姉小路氏(のち姉小路氏分裂後は小島氏)の本城です。姉小路氏は家綱が南朝より国司に任命され信包城(向小島城)に居城しました。応永年間(1394〜1428年)に尹綱が小島城に居城している史料があるとのことで、この頃の築城と考えられます。尹綱の後、姉小路氏は小島城の小島氏、向小島(小鷹司)城の向氏、古川城(蛤城)の古川氏に分裂しました。小島氏は勝言あるいは時光の頃に小島氏と称したようです。天正年間(1573〜1592年)頃は小島氏は三木氏に属していたものと考えられます。天正十年(1582年)には江馬輝盛と三木自綱は八日町にて戦い江馬氏は破れ滅亡しました。この時、小島時光は三木氏に属し、江馬氏の本城の高原諏訪城を攻めています。 天正十三年(1585年)には豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵攻、この時に小島城も落城したと考えられます。 |