美濃/ | 岐阜城 |
ファイルNo0459 |
@ ぎふじょう |
道案内 第二駐車場 第三駐車場 | |||
東海北陸道の岐阜各務原インタを下り、国道21号線を左折し進みます。6Km先岐南インターを越えさらに3Km先の茜部本郷の信号を右折し国道157号線に入ります。2.8Km先の岐阜駅前で右折し750m先の神田町5の信号で直進し国道256号線に入ります。2.1Km先で国道は右折しさらに300m先で左折します。300m先で右折となり最後に300m先で左折とジグザグに進みます。最後の左折する前面の山が金華山です。岐阜公園有料駐車場を利用します。(第三駐車場は河川敷にあり無料です。) 七曲大手道には岐阜県歴史資料館の近くより登ります。<岐阜市歴史博物館とは場所が違います> |
|||
訪城備忘録 | |||
難攻不落の城とは言われますが、半兵衛に乗っ取られたり、3回も落城してますし、歴代城主については池田輝政以外はあまりよい生涯であったとは言えない感じです。しかしながら、比高300mはさすがに堅固であります。山上の有効地をめいいっぱいに利用し郭を形成されていて、ところどころに往時の石垣が残り当時の形を想像させます。(ほとんどが信長以降の石垣<池田輝政の時代?>のようです。) 現天守台は明治期に初代模擬天守を建てる際に今まであった石を使って元々よりはひと廻り小さくして積み直しているようです。その模擬天守台の下から古い時代の天守台石垣が発見されたり、山上遺構以外から道三時代の石垣も発見されたりしていますが非公開です。山上にはロープウェーで登れますが、七曲道(大手道)、馬の背道、水手道(瞑想の小径)などで徒歩でも登れます。七曲道は幅の広い石段道が続きます。堀切が見られます。馬の背道は岩場の上りが続きます。山上主要部下に石垣が見られます。水手道はわりとなだらかですが、道のりは長く、幅の無い道が続きます。裏門遺構が見ることができます。 |
|||
|
建仁元年(1201年)に二階堂行政が築いたとされます。応永年間(1394〜1428年)には美濃守護土岐氏の守護代斎藤氏の居城となります。その後、斎藤氏の家老の長井氏が台頭し稲葉山城は長井氏の持城となっていました。天文七年(1538年)長井新九郎正利は斎藤山城守秀竜(出家して道三)と改名し守護代となりこの城を居城としました。天文十一年(1542年)に土岐頼芸を追放して美濃一国を手中にしました。天文十八年(1549年)には城を大改修し、天文二十三年(1554年)に道三は家督を義龍に譲り鷺山城に隠居しますが、弘治二年(1556年)に義龍は道三を討ちました。永禄四年(1561年)に義龍が病死すると龍興が後を継ぎますが、永禄七年(1564年)に竹中半兵衛重治によって稲葉山城が占拠するという事件が起こりました。永禄十年(1567年)には織田信長に攻められ落城しました。信長は稲葉山城を居城とし、城と町の名を岐阜と改めました。この岐阜は「中国の周の文王、岐山より起こりて天下を定む」より岐を取り、阜は文の都の曲阜よりとられているとの事です。信長は永禄十一年(1568年)に足利義昭を擁して上洛し、天下布武を掲げました。天正四年(1576年)には信長は織田家の家督と岐阜城を信忠に譲り安土城に移りました。天正十年(1582年)に本能寺の変で信長・信忠が倒れますと、岐阜城は信長の三男信孝が城主となります。天正十一年(1583年)に秀吉に攻められ開城し、城は池田元助が城主となりますが、天正十二年(1584年)長久手の戦いで元助戦死後は池田輝政が城主となり城を改修しました。天正十八年(1590年)輝政が吉田城に移ると、秀吉の養子の豊臣秀勝が城主となりますが、文禄元年(1592年)に朝鮮にて戦死、同年に信長の嫡孫の織田秀信(三法師)が城主となります。関が原の戦いでは秀信は西軍に付き、関が原の戦い前の八月に東軍に攻められ落城しました。慶長六年(1601年)に徳川家康の命で岐阜城は廃城となり、加納城に資材は移されました。 <現地案内板より> |