伊勢/ | 大河内城 |
ファイルNo1005 |
北畠氏・織田氏攻防の城
@ おおこうちじょう |
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【道案内】 伊勢自動車道松坂インタを下り、すぐの信号を右折し県道59号に入り南下し4.2Km先の三郷橋を渡ると国道166号線の信号で、これを右折し国道166号を進みます。(国道166号線は松阪市中心部の大黒田西の信号で国道42号線と分岐しから西に向かう国道です。)2.1Km先で広阪のバス停を越えたあたりで右折し阪内川を渡り西運寺前で右折した裏山が城跡です。 【訪城備忘録】 麓より進みますと右手に馬場を越えて台地上に登ると本丸に至ります。本丸は現在は神社で、本丸から二の丸を通り背後に廻ると西の丸との間に明瞭な堀切が残ります。これは深く明瞭な堀切です。この堀切から続く北側の谷はマムシ谷というらしい・・(コワッ) 西の丸の西側・北側の一段下に郭があります。この先斜面に堀切が1条づつあります。二の丸まで戻り、草の多い馬場と表記ある平坦地(ここは畑利用などが過去にあるため相当に改変されているようです。)を越えていくとさらに平坦地が続きます。やや左手方向に進むと浅い切通状の窪地を越え郭を越えるとこの城最大の大きさの堀切があります。この先は火薬庫という名前が付いた郭がありますが、藪藪で見ることができませんでした。大きな平坦地の反対側の端まで犬走りと言われる通路を通って行くと大手谷上の郭の至ります。ここは3段ほどあり大手へ横矢がかけられる郭と説明されるようです。 西蓮寺側から来ると最初に切通状態になっている堀切とその先に出丸と呼ばれる郭もあるようですが、こちらには行きませんでした。 【歴史】 応永二十二年(1415年)、北畠氏三代の北畠満雅が阿坂城に籠城した際に築城し弟の顕雅が在城しました。以後、顕雅の子孫の居城となり大河内御所と呼ばれました。永禄十二年(1569年)に織田信長の伊勢侵攻の際、北畠国司家八代の具教は本拠を多気からここに移しました。具教は信長の次男信雄を北畠氏の養子にして和睦し、信雄はここを居城としましたが、天正三年(1575年)に田丸城に移り、廃城になりました。 |
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