伊勢 | 田丸城 |
ファイルNo1102 |
戦国から江戸期まで存続した総石垣の城
@ たまるじょう |
道案内 | |||
伊勢自動車道玉城インタを下り、料金所から左折し県道65号線に入ります。1.5Km先で直進し県道530号線に入り(JR参宮線の陸橋を越えた)、900m先の信号で右折し600m先で右折すると玉城中学です。ここから登ると富士見門側から入れます。 |
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訪城備忘録 | |||
小山に築かれた城は麓の周囲を水堀が巡り、頂部に北の丸、本丸、二の丸を直線的に配し、連郭式という感じです。最初に築かれた南北朝期の城はこんな縄張りだったんでしょうかね。その後、大改修される際に東側麓へ郭が展開されたんでしょう。築かれている石垣は隅が算木積みされており、天守、及び、大手門石垣、掘石垣は野面積みと思いますが、それ以外は打ち込みハギが主体に感じますので安土城の石垣よりは新しく感じますので、信雄以降の構築石垣なんでしょうね。城跡は麓の役場前から入ります。内堀に城壁の石垣があります。虎口は大きくコの字に進路が曲がりながら上に登ります。中学校の敷地沿いを左回りに廻りながら登ります。主要部下の富士見門(移築)に至ります。さらに左手に登ると主要部の虎口で枡形を抜けると本丸と北の丸の間の堀切状のところに出ます。北の丸は現在、城山稲荷社になっていますが、郭の東面、南面は石垣が築かれています。一部推定修築された部分もあるとの事です。本丸虎口を抜けて本丸内に入ります。右手に天守台があります。高さはありませんが堂々としたものです。ここに三層五階の天守が建っていたようです。扇状に開いた階段は明治に改変されたようです。主郭と二の郭の間にある以前は堀切なんだろうけど、空堀状の堀に石垣が築かれ、これは見どころの一つです。二の丸虎口も石垣で構築された大きな枡形の虎口です。搦め手から主要部の西面を行きますと石垣の壁になってますが雑草が多いです。北の丸の北側下まで回り込むと内堀の痕跡があります。この城は中世的な縄張りに近世の改修が入ったという感じの城でした。 夏場、内堀には大賀ハスと呼ばれる古代ハス(大賀博士が蘇られたハス)が花を咲かせます。前回7月中旬で花が咲いてましたが、2019年8月の中旬でもまだまだ咲いていました。 |
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延元元年(1336年)に北畠親房が南朝方としてここに城を築城しました。その後、北畠顕信(顕晴)は入り田丸氏と称しました。永禄十二年(1569年)に伊勢に侵攻した織田信長は次男信雄を北畠氏の養子として入れることで北畠具教と和睦し、信雄は天正三年(1575年)に田丸城を大改修し大河内城より移りました。天正六年から七年が第一次伊賀天正の乱でした。信雄はこの戦いに敗れ信長から叱責を受けます。信雄は天正八年(1580年)に田丸城が火災で天守が焼失、居城を松ケ島城に移しました。天正十二年(1584年)以降は蒲生氏郷の持ち城となりましたが、天正十八年(1590年)、氏郷が会津に転封となると稲葉重道が入りました。江戸期に入り、稲葉氏、藤堂氏の持ち城となりましたが、元和五年(1619年)、紀州徳川家の領地となり、家老の久野宗成が入り久野家が代々城代を勤め明治まで続きました。 |
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内掘の大賀ハス |
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