播磨 | 城山城 |
ファイルNo3022 |
@ きのやまじょう |
道案内 ←中世城山城主郭 ←亀山会館(公民館)←兵糧道登り口 ←大手道登り口 ←越部西公園 |
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山陽自動車道の龍野インタを下り、県道29号線を北上します。約1.4km先の富永の信号を左折し国道179号線に入ります。約600m先、龍野橋で揖保川を渡り、龍野橋西詰の信号を右折します。約4.8km先の船渡の信号を左折し県道724号線に入ります。約200m先を左折し、約400m先を左折し直ぐの右手が亀山会館(公民館)でここは兵糧道の駐車場です。亀山会館からさらに栗栖川の方へ歩き、川沿いを左手に約100mほど歩くと細い橋があり、ここを渡ったところが兵糧道登り口でゲートをくぐり山道を登ります。 越部西公園の駐車場は大手道と兵糧道の登城口の中間になるのでここに駐車でもいいです。 大手道登り口は船渡の信号から県道724号線を約1km先で栗栖川を馬立橋で渡り、橋から約1km先で左折し、約50m先で左折、さらに、約50m先で右折、約400m先の左手に墓地の駐車場有り、入ってきた道を約50m先に山に入る道がありここが大手道の登り口です。 山の北側、祇園嶽(祇園城)側に搦手道の登り口というのが東側と西側にありますが、当日、祇園嶽(祇園城)へ行く体力もなく 廻っていません。 龍野城から龍野古城に登り、尾根をひたすら歩いて的場山を経由して中世城山城主郭まで行けるようです。 |
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訪城備忘録 | |||
大手道登り口から入り兵糧道に下りてきました。比高で400m強、だいたい5時間かかりましたが、ハイキングとしてはいいんでしょうが、城跡としてはやや物足りない感じもします。城巡りというより軽登山ちゅう感じです。この日は天気も良かったのでトレランの方を含め何人かの方に出会いました。この城跡、古代城と中世山城が混在しています。古代山城は尾根道の西側斜面に遺構が残っています。中世山城は亀山山頂から南に下りて来る道の東側に数多くの郭が展開していますが、広い段郭が連なるという感じで面白みには欠けます。 それでは踏破した道のりを順に綴ります。大手道は古墳群のところから登ります。岩場の急斜面を登ります。尾根まで登り、南へ尾根を進みます。(北は祇園嶽方面) 尾根道をしばらく進み標識の所で右折するとすぐに亀石でさらに下りて行くと亀ノ池(きのいけ)があります。池は後年のものですし、城関係では無いです。尾根に戻り南に進みます。説明板のある所に浅い堀切と土塁があります。 このそばで右側に進むと土塁と空堀状が長く続きます。土塁の上を歩いていき、右下に下りて行くと石塁3があります。ここは古代城の水門みたいな感じに見えます。戻り、門の築石の尾根に向かいます。 四角い門の礎石が二個尾根上にあり、一個は西下斜面に落ちてました。この門の築石の凹形式の石は唐居敷と呼ばれる構造だそうで内開きの門であったとの事です。この形式の門は山口県の石城山神籠石にある沓石が同じ構造だそうです。門の築石の先に薄い堀切がありました。ここから斜面を登り、竪堀状斜面を登って行くと亀山山頂に至りました。ここが古代城の主郭とか。確かに平坦地は広いです。 亀山山頂から南へ下りて行くと石塁2との分岐点で右手に入って行きます。尾根道を進み途中で(標識有)右に下りると石塁2です。この石塁は城内最大で高いところで3mほど長さは50mほどあるでしょうか?堂々とした石垣です。尾根をさらに進むと城内最大の堀切です。岩盤の堀切で、その先の岩場で、ここに堀切が必要か? ちと疑問。尾根道まで戻り、南に下りて行きます。道の両サイドに平坦地が段郭状に続きます。特に左手(東側)の郭は広いです。比高で30mほど下りると中世山城の主郭です。 主郭は西端に石塁1と井戸があります。南側には「三基墓」と呼ばれる墓があります。この墓は嘉吉の乱で討死した赤松氏関係の墓でしょうかね。石塁1は郭の端に残存程度でしょうか? 往時は周囲に巡っていたのかもしれません。主郭から南側へ進むと礎石と石列の残る平坦地があります。中世山城の際に寺の本堂が建てられたという記録があるとの事です。ただ、この礎石は古代城の倉庫の礎石を転用した可能性があるとの事です。礎石跡の平坦地を先に進むと現在は展望台と言われる郭です。木々が伐採されており、眺望がいいです。麓からもここがはっきり見えてます。 戻って主郭と展望台に挟まれたところの頂の郭群も見ましたが、平坦地はたくさんありますが、どういう構造をしているのかよくわかりません。一カ所、わりと大きな土塁がある郭もありました。亀山山頂方面に行くとさきほど東側の郭群を見たところに出ます。大きな平坦地なんですが、寺の坊跡でもいいような郭が続いているだけです。帰りは兵糧道を下りました。白旗城のガレ場よりもしかしたら歩きにくいかも。途中、見張り岩という大石があります。 下りでしたがなかなかしんどい道でした。 全行程5時間かけましたが、イマイチよくわからん城跡でした。しかし、これで白旗城、置塩城を合わせ、赤松氏の本城はコンプリートできました。^^; |
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古代城は奈良時代に大和朝廷が築いた神籠石式山城と言われます。大和朝廷は、天智天皇二年(663年)の白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗れたことから、来襲を恐れた大和朝廷が九州から畿内までに作った神護石式山城のひとつと考えられます。なお、大和朝廷が史書に残す古代山城は12あり、それ以外の施設を神護石式山城というそうです。 中世山城については、赤松氏が則村(円心)、則祐、義則、満祐と続きますが、正平七年(1352年)頃から則祐が城山城を築いたとされます。二十年かけて整備したともされますが、防備鉄壁な城には見えないです。嘉吉元年(1441年)、満祐は五代将軍足利義教を殺害し城山城に籠りました。しかし、細川持之は細川持常、山名持豊(宗全)ら幕府軍を構成し城山城を攻め、満祐は自刀し赤松氏嫡流は滅亡しました。城山城はこの時にいったん廃城になりましたが、天文七年(1538年)、尼子晴久が播磨に進行した際にこの城を修築し在陣したとされますが、その後天文九年(1540年)に尼子氏は撤退した後は廃城となったとされます。 |