播磨 白旗城



ファイルNo1586

赤松氏初期本城 ガレ場の登り道はけっこうきつい^^;

           主郭下郭

@ しろはたじょう・しらはたじょう 
  別名 

A住所:赤穂郡上郡町赤松
B目標地点:
C形式:山城  D比高:400m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・堀切・竪堀・土塁・碑・説明板 
G時代/人物:南北朝期/赤松氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓より60分

J撮影・訪問時期:2000年08月・2014年10月
            2019年01月

  

道案内 ←登り口

山陽自動車道竜野西インタを下り、県道93号線に左折します。1.5km先の信号で右折し、国道2号線に入ります。約15km先、有年原の信号で国道373号線に入ります。約16km先、国道が大きく右カーブから左カーブとU字に蛇行する箇所の出口付近に右手に「白旗城跡」の看板が見え、田んぼの中の道に右折します。250m先で右折し、200m先左手に駐車場があり、小さな橋を渡ると獣除けのフェンス入口があり、そこより入ります。

訪城備忘録

この城は2000年の夏に一度訪れましたが夕方だった事もあり、軟弱にも途中断念しました。その時は野桑側でしたが、今はこのルートは通れないようです。 赤松側の獣除けフェンスのゲートをくぐり、しっかりした山道に入ります。

左手に白旗八幡神社跡と栖雲寺跡の広大な平坦地があります。ここにも居館とかあったんでしょうかねぇ。 800mほど進むと左へ、岩がゴロゴロした急な谷筋の山道に入ります。ここから1.1kmの標識があります。(1.1kmという距離ではないっすね^^;) 途中、石積みがある平坦地があります。これは白旗城関連ではないようです。さらに登ると再度古い標識があり、Y字を左手と書かれて、麓まで1.28km、城跡まで0.81kmと書かれています。尾根まで登ると左手に進みます。ここの標識は城跡まで0.8kmと書かれてます。 <麓から尾根まで2km、尾根から主郭まで0.8kmちゅうところですかね>  

尾根をを進むと斜面に岩場の小さな堀切に至ります。この箇所から上の尾根までやや急斜面を登ります。この斜面にも石垣が確認できます。上の尾根に上がると右手に段郭があり、左手にはさらにピークの頂があり、ここは櫛橋丸(四の郭)と言われる郭です。この頂の背後とニの丸(二の郭)との間には幅のある大堀切があります。(大堀切ちゅうより自然地形の鞍部) 二の丸(二の郭)はけっこう広い空間で、尾根上には馬場、本丸(主郭)へと続きますが、二の丸(二の郭)の右手下に侍屋敷と呼ばれる郭群があって、石垣が多数残るとともに庭園跡も散在します。さらに下は大手郭とされ、石垣の残る大きな郭が二つ、それに続く段郭があります。(2019年確認) これは段郭と石垣なのか、崩落止めの石垣群なのか??です。

二の丸(二の郭)から尾根は馬場、桜門、本丸(主郭)下段郭と続き本丸(主郭)に至ります。本丸(主郭)もけっこう広い空間です。また、眺望もすばらしいです。本丸(主郭)右手下の尾根には多数の小段郭がありますが、あまり明瞭な遺構という感じはないです。左手に下りて行くと三の丸(三の郭)です。三の丸(三の郭)先端には土塁が三日月状に残ります。その先を下りると堀切が残ります。三の丸(三の郭)左手に二段の小郭があり、二つの石列に挟まれた虎口があります。二の丸、本丸、三の郭はサイズの大きな郭で居住性を感じる大きさです。白旗城は櫛橋丸、本丸東側尾根、二の丸尾根に盤座(いわくら)があり、巨石信仰のものとの事です。この城、新田軍に攻められても落ちない城で受験生などが絵馬を奉納されるんですが、本丸にあった絵馬に「残りの人生、落ちないように」という顔文、わかる〜^^

築城は南北朝かもしれませんが、戦国初期くらいまでは機能していたんでしょうね。赤松氏の前期本城にふさわしい大きな城でした。それにしても、赤松氏の拠点城は比高の高い、城域も広く、一つの郭も広く居住性を感じる城が多いですね。

野桑側説明板(2000年)
歴史

赤松(円心)則村が鎌倉末の元弘三年(1333年)あるいは建武二年(1335年)に築いたとされます。元々の山岳寺院を改修して築かれたとも言われます。赤松則村は足利尊氏に従い、いったん九州に逃れ再び東上する尊氏を迎え撃つため西進してきた新田義貞軍6万を50日間この城で食い止めたとされます。赤松氏は則村(円心)の後、則祐、義則、満祐と続き、則祐は城山城を築城し本城を移したともされますが、本城として機能していたようで、延文六年(1361年)、則祐は幼い春王(三代将軍足利義満)を白旗城に避難させたという記述があります。また、麓の館を守護所にしたとされます。嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は将軍義教を殺害し城山城に籠城しましたが、敗れて赤松氏はいったん没落しました。<嘉吉の乱> その後、政則の時に赤松氏は再興し、本城は置塩城を築きました。 白旗城は嘉吉の乱以降にはあまり史料には出てこないようですので、勢力情勢の変化で本城となるだけの価値が無くなっていたようです。しかし、遺構からすると、戦国期までは使われていたように思えます。

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主郭から三の郭       侍屋敷
現地案内板より
麓の登城口(ゲート)       岩場の堀切
谷間の登城道     尾根まで手前
櫛橋丸下登城道
  
岩場の堀切 2014年秋
岩場の堀切 2019年
斜面
大堀切          櫛橋丸
大堀切 2014年
大堀切 2019年
二の郭          馬場
三の郭と土塁           三の郭下堀切
侍屋敷庭園跡         侍泰樹石垣痕跡
侍屋敷石垣
岩場の堀切の斜面とそこにある石垣
    赤松側の説明板     城跡遠景(V字に木が無いところが主郭)
主郭 2014年
主郭 2019年
主郭からの眺望
主郭からの眺望
三の丸からの眺望(赤松方面)
赤松屋敷から城跡遠望
V字に木が無いところが主郭、右手のピークが櫛橋丸、真ん中の平坦地が二の郭
谷間の石垣群
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近くの城・関連の城:置塩城

          


赤松氏館 2918
説明板
@ あかまつしやかた 
  別名  

A住所:赤穂郡上郡町赤松
B目標地点:
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:グランド

F遺構等:説明板
G時代/人物:鎌倉期/赤松氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分


J撮影・訪問時期:2014年10月・2019年01月
なぜか苔縄城の城址碑    館跡から白旗城を遠望
 

赤松則村(円心)の後の則祐が守護所として整備したようです。今はグランド広場になつていて地表に遺構はありません。奥に「苔縄城」の城址碑が建ってます。この石碑が建った時には苔縄城がどこにあるのかが特定されていなかったのかもしれません。