播磨 | 鶏籠山城 |
ファイルNo2853 |
@ けいろうさんじょう |
道案内 | |||
龍野城まで行き御殿背後にある登城口からつづら道を登って行きます。 ただ、台風の影響で登城道が荒れているという情報があり、北側から鶏籠山を目指した方が楽と言う情報もあります。 |
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訪城備忘録 | |||
夕方登ったので日没との競争でした。まだ、コンデジでしたので1/3程度の写真はブレブレ写真になってしまいました。城域には石垣の痕跡が諸所にあり、赤松氏の城というか、その後の蜂須賀氏〜小出氏くらいまでの改修の跡なのかですかね? 慶長年間に天守を取り壊したという話も伝わっているらしく、小出氏から豊臣氏直轄地の時代くらいの話なんでしょうかね。 城跡には麓の龍野城の背後登城口から登ります。つづらの道を登り城域に入ります。最初の郭は円弧に近い郭で外側に沿って土塁が延びています。郭内に大きな石が散乱していて石垣がどこまであったかと思わせます。主郭に向かって尾根上に段郭が続きます。中間点付近に二の郭(丸)、その先、平坦な大きな郭が続き、主郭に向かって二段の段郭を越えると主郭です。主郭斜面には諸所に残存石垣があり、主郭虎口には石段と石垣が残ります。主郭の北側には八幡神社跡があり、その北側には堀切があるようですがここまでは行きませんでした。 2022年3月、龍野城に寄って鶏籠山城の西斜面に落ちる大竪堀を見てきました。すごく大きな竪堀です。知人曰く、ここをよじ登っても竪堀の始まりと尾根上の郭の間が急斜面過ぎて危険で行けないとの事です。 |
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赤松村秀が明応八年(1499年)が築いたとされます。現在の龍野城は江戸期の部分で、村秀が築城した頃は麓は居館(根小屋)であったようです。村秀ー正秀ー広貞ー広秀(後年、竹田城城主)と続きますが、天正五年(1577年)の羽柴(豊臣)秀吉の攻撃に屈しました。 その後、蜂須賀正勝(小六)が置かれ、さらに、福島正則、木下勝俊、小出吉政と城主が変わりました。江戸期に入り池田氏の支城となり、元和三年(1617年)以後、本多政朝が入封、寛永三年(1626年)、政朝が姫路城本多宗家を継ぐと、小笠原長次、岡部宣勝と城主が変わり、寛永十四年(1637年)、京極高和(松江二十六万石 京極忠高の養子で減封の上、松江より転封)が入り、万治元年(1658年)に讃岐丸亀に転封の後は山頂部は廃城になりました。 |
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