播磨 龍野城



ファイルNo1585


               模擬隅櫓             

@ たつのじょう 
  別名 霞城 

A住所:たつの市龍野町上霞城
B目標地点:龍野歴史文化資料館
C形式:平山城  D比高:20m 
E現況:公園・公共機関・宅地

F遺構等:郭・復元御殿・模擬櫓・復元門
      説明板・(移築門)

G時代/人物:戦国期・江戸期/赤松氏・脇坂氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分

J撮影・訪問時期:2014年03月・2022年2月

  

道案内 

電車では山陽本線竜野駅からでは遠く、姫新線の本竜野駅(姫路で乗り換え)から近いです。 車では、山陽自動車道の龍野インタを下り、県道29号線を北上します。約1.4km先の富永の信号を左折し国道179号線に入ります。約600m先、龍野橋で揖保川を渡り、龍野橋西詰の信号を直進します。約300m先を右折し、約400m先、正面が裁判所のT字交差点を右折し、さらに約50m先で道は左折となり、左折後はそのまま直進します。約50m先の埋め門前で右手に登ると龍野歴史文化資料館です。

訪城備忘録

2000年8月に初めて訪れてから数回は来てますが、龍野の街中をゆっくり歩いたことがないなぁ.^^; 江戸期脇坂氏時代の城郭が麓に残りますが、遺構としては石垣のみで、本丸御殿、門、櫓などが復元されています。周辺には明治の脇坂屋敷、江戸期の上御殿の聚遠亭(茶室)・御涼所があります。また、大手門が因念寺(たつの市揖保川町野田)に、錣坂門(しころさかもん)が蓮光寺(太子町常全)に、東門(すかし門)が浄栄寺(たつの市揖保川町正條)に移築され、さらに、光遍寺(たつの市揖保町中臣 )にも門が移築され、家老門(たつの市龍野町上霞城)も残ってるとの事です。
龍野城と鶏籠山城(龍野古城)は豊岡市出石の出石城と有子山城の関係に似てますね。

※(プチ情報)太子町鵤(いかるが)の斑鳩寺には赤松正秀、広秀の供養塔があるらしい。
説明板
歴史

嘉吉の乱(1441年)で赤松氏はいったん没落しました。 この乱の首謀者である赤松満祐の弟の義雅の子の時勝、時勝の子は政則、政則の子が村秀、(村秀は赤松則貞の孫という説も有るあしいです。) この村秀が明応八年(1499年)に鶏籠山城(龍野古城)を築いたとされます。現在の龍野城は江戸期の部分で、村秀が築城した頃は麓は居館(根小屋)であったようです。龍野赤松氏は村秀ー正秀ー広貞ー広秀(後年、竹田城城主)と続きますが、天正五年(1577年)の羽柴(豊臣)秀吉の攻撃に屈しました。 その後、蜂須賀正勝(小六)が置かれ、正勝死後は福島正則、木下勝俊、小出吉政と城主が変わり、関ケ原の戦い時点では豊臣氏の直轄地でありました。関ケ原の戦い後は池田氏の支城となり、元和三年(1617年)以後、本多政朝が入封、寛永三年(1626年)、政朝が姫路城本多宗家を継ぐと、小笠原長次、岡部宣勝と城主が変わり、寛永十四年(1637年)、京極高和(松江二十六万石 京極忠高の養子で減封の上、松江より転封)が入り、万治元年(1658年)に讃岐丸亀に転封の後はいったん廃城になりました。寛文十二年(1672年)、脇坂安政が五万三千石(後に五万一千石)で入封、城を再建しますが、山頂部は放棄し、山麓部のみ改修しました。脇坂氏が明治維新まで続きました。

復元御殿      隅櫓下石垣
現地説明板より(江戸期の絵図)
  
石垣
模擬隅櫓と錣坂(しころさか)
復元御殿
紅梅
埋め門
埋め門     埋め門石垣
御涼所
脇坂屋敷(明治期)
脇坂屋敷(明治期)

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