丹波/ | 黒井城 |
ファイルNo1602 |
丹波の赤鬼の城
@ くろいじょう |
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【道案内】 ←黒井城用駐車場の位置 舞鶴若狭自動車道の黒井インタを下りて国道175号線へ左折します。1.4Km先六反田の信号(明治Pの工場手前・黒井城の案内板有)の信号で右折します。JR福知山線をくぐり、800m先で左折し、すぐに右折します。右手に黒井幼稚園、興禅寺、左手に黒井小学校の間の道を進むと駐車場です。ここより登ります。 【訪城備忘録】 黒井城は八上城・八木城と合わせて丹波三大山城と言われます。山頂の黒井城主郭は竹田城(朝来市和田山)ほどではないにしても天空の城でした。主要部は9合目くらいの斜面上から郭内は木々が伐採されたため、眺望もよく気持ちいい城跡です。地元の方の保存に対するご配慮に感謝です。さて、この城は猪ノ口山山頂部を中心に西側には西の丸や千光寺砦、北側には龍ケ鼻砦、百阡n場、あるいは、東側に東の丸、多田砦を配し、山全体が城郭群という感じです。城跡には興禅寺と黒井小学校の間の道を山側に進むと右手に駐車場があります。ここより主郭(本丸)まではゆるやか坂コースで1100m程度です。整備された道を登って行きますと、主要部の下で「石踏の段」という大手で一番大きな郭に至ります。<急坂経由ですと900mほどで「太鼓の段」を経由し「石踏の段」に至ります。> 赤門風の東屋が設置してあります。さらに登ると東の郭より主要部です。東の郭まで登ると石垣が目に飛び込んできます。高さ2m程度、長さ10m程度の石垣ですが、石垣を見るともう疲れはどこへやらです。ここより三の郭(丸)・二の郭(丸)・主郭(本丸)と続き、各郭には石垣が残存します。二の郭(丸)から主郭(本丸)の南側斜面の石垣は高さ3m程、長さ30m程と特に良好な感じで残存しています。主郭(本丸)に入る虎口のところに張り出した感じの空間下が石垣になってます。主郭(本丸)虎口の横の石垣上は櫓台と言われています。主郭(本丸)よりの眺望は360度大パノラマちゅう感じです。麓、駐車場近くにある興禅寺は居館跡とされます。「黒井城下館」のページへ。 「黒井城西の丸」のページ 2018年、再訪城しました。急坂経由で太鼓の段を経由しました。途中、山中に竪堀形状の地形があるけど違うのかな?。太鼓の段から東の丸に行こうとしましたが、椿の群生地から先の道が崩壊?か、わからなくなり、東の丸の上の斜面まで直登してしまいました。おかげで東の丸には行けず。^^; 主要部に登った後、西の丸まで行きました。西の丸は主要部西の郭から急な段差を5mほど降り、フェンスのゲードをくぐってさらに岩場の急坂を比高で70mほど降ります。尾根の鞍部から逆に比高で30mほど登ったところにあります。(鞍部のところで右手の道を行くと龍ケ鼻砦・百阡n場の方面のようです。西の丸は黒井小城(出城)的な感じで4つの郭が連続して並びます。登ってきた最初の郭が主郭でそこよりなだらかに下る尾根上に郭が連なります。主郭下の郭が特に技巧的で、土塁が巡り、先の郭との間は堀切で隔てられています。他の郭も一部土塁、櫓台なども認められます。これはもう「丸」という範疇ではなく、他の砦同様に本城を守る出城ですね。 2020年02月訪城 大河ドラマの影響で訪問者が増えるという観点からでしょうか、遺構破壊防止と事故防止を含めた処置でしょうけど、見学路に地表保護ネットとアルミのはしご、石垣に金網ネットで覆う処理がされました。やや残念な光景です。山頂部をほぼ木々を伐採したので、遺構が見やすくなり、眺望も抜群にはなりましたが、今回の処置には賛否があるでしょうね。 【歴史】 建武二年(1335年)に赤松貞範によって砦が築かれたのは始まりとされます。その後、赤松氏は5代続きこの地を領有し城には城代が置かれたとされます。応仁の乱の頃に荻野氏がこの地を押領し、荻野秋清が二代目でしたが、天文十一年(1542年)に赤井才丸が荻野一族の盟主となり、天文二十三年(1554年)に才丸は黒井城の城主となり、荻野悪右衛門直正と名乗りました。その後、直正は勢力を拡大し、黒井城も一大要塞に改修しました。天正四年(1576年)には織田信長軍である明智光秀と戦い撃退しています。しかしながら、天正六年(1578年)に直正は病死し、嫡子の直置(直義)が城主となりますが、天正七年(1579年)に明智光秀に攻められ落城しました。その後、光秀の家臣の斉藤利三が城主となりましたが、天正十年(1582年)の本能寺の変以後では堀尾吉晴が城主となりますが、関が原の戦い以後に廃城になったようです。主要部の石垣などの近代的改修は斉藤氏、堀尾氏の時代のもののようです。 |
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