丹波/ 八木城



ファイルNo1544

内藤氏の本城

                 主郭東下帯郭下石垣(登城道主郭手前上)   

@ やぎじょう 
  別名 

A住所: 南丹市八木町八木
     旧:船井郡八木町

B目標地点:春日神社
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・説明板 
G時代/人物:戦国期/内藤氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓の登り口から35分
J撮影・訪問時期:2006年08月・2018年07月
        2019年10月・2021年11月

  
主郭土塁

【道案内】    ←登り口

京都縦貫自動車道八木東インタを下り、県道455号線を進みます。600m先の八木東インタの信号で右折し国道9号線に入り亀岡方面に進みます。1Km先で八木駅前の八木の信号です。そこから180m先の点滅信号を右折し県道452号線に入ります。すぐにJR山陽本線の狭い踏み切りを渡ると県道は斜め左折ですが、そのまま直進します。八木小学校のところで道はクランクです。さらに山麓まで進むと春日神社で、その横を100m進むと内藤ジュアンの碑があり、そこを左折します。50m先の縦貫道のガ−ド手前に案内板があり、ガードをくぐると左手に登山道が続いています。
  



【訪城備忘録】

登城道を登り始めるとすぐに重臣の居館跡群があります。何段もの段郭になっていて一部土塁や石塁の痕跡も見られます。登山道は1合目から9合目まで案内標識があります。6合目付近で対面所です。登城道から左手に入ると浅い堀切形状と広い郭が認められます。登山道を登ると楽ですが、このまま段郭を登って主郭(本丸)に向かいました。この主郭北側には大きく五段ほどの段郭が認められます。

主郭は山頂で南側に土塁が明瞭に残り、東側に堀か帯郭があります。南西には金の間と呼ばれる一郭があり、ここは周りより一段高く若干穴倉のようになっていて、天守櫓の原型だったようです。この付近には石垣の痕跡が認められます。

主郭の西側下は内藤土佐郭です。主郭南東側下の平坦地は説明板には馬屋とあります。その先に高台がありU字の土塁の存在する郭になります。この左手を行くと堀切を越え二の郭(二の丸)、尾根上に明瞭な段郭群(八木玄蕃郭群)、さらに妙見宮側に降りる道です。高台の右手を進むと北尾根の郭群があります。大きく段郭が三段ほどありその先に前後に段郭を持つピークの郭があります。このピークの郭は案内板では北の郭(丸)とあります。三段目の郭と北の郭にはU字の土塁が認められ、三段目の郭と北の郭の間が堀切状で斜面に石垣の痕跡らしきものが認められます。この斜面には岩をくりぬいた水貯め穴が二箇所あります。さらに、大穴もありますが、これは昔の鉱物採掘の跡です。主郭(本丸)下まで戻り登山口へ降りようとすると主郭下に一番明瞭な石垣が見られました。

2018年7月の三連休、猛暑の中登ってきました。前回も8月でしたが、今回は目眩がするような暑さでフラフラの城巡りでした(笑) 内藤法雲の郭には行けてません。内藤法雲の郭はもうすでに出城のような城域でL字の連郭式で8段ほどの郭があり、城域の両端に明瞭な堀切がありようです。また、いずれかに行って見たいものです。さらに、神前口への谷間を下りていくと中腹に大きな段郭があり、側面に石垣が残り、谷筋は石段の痕跡があります。先端の平坦地には「東・北ノ庄村」の石碑が立ってました。これらは城の遺構か妙見宮の関連か?後世か?わかりませんでした。

2019年10月、行けていなかった内藤法雲郭群に行ってきました。妙見宮への分かれ道の堀切から直進し尾根へとまた登って行きます。尾根の中間の鞍部までのぼると左右のピークにきれいな段郭が続きます。右手(北側)は三段の段郭頂部の郭の先は堀切です。左手(南側)は段郭頂部の郭から右手に折れながら大きな郭が三つほどあり、郭群端には櫓台ともいえる砲台郭があります。その先は大きな堀切です。この斜面に石垣という石列もあります。堀切東端にはふたつの竪穴の大穴がふたつありました。これも坑道なんでしょう。 しかし、この内藤法雲郭、もう一個の城(出城)ですね。

2021年11月再訪しました。2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」の影響で整備が進んだようです。麓の屋敷地区の登城ルートが若干変更になり、屋敷跡もある程度見やすくされた感じです。登り道の道標も新しくなり、城内の案内標識も増えてました。この日、亀岡盆地の雲海を八木城から見る事が出来ました。今回の訪城では、主郭西下斜面の石垣、内藤法雲郭群の右手郭群(北側)先端、堀切のところの残留石垣2ケ所を確認しました。なお、鞍部から妙見宮へ下りるルートは通行止めになってました。
  
【歴史】

建武二年(1335年)に内藤季継が足利尊氏より桑田、船井を与えられ、その後に八木城を築城したとされます。永承三年(1431年)、内藤信承が守護代になった頃より、城は順次拡張、改修されていったようです。室町時代中期には丹波の守護の細川勝元は、守護代内藤氏(内藤元貞)に丹波を守らせました。天文二十二年(1553年)に八上城主の波多野秀忠らに攻められ落城、内藤国貞が討死し、直後に松永久秀の弟・長頼(国貞の娘婿?)が八木城を奪回して長頼はのちに内藤宗勝を名乗りました。永禄八年(1565年)、宗勝も討死し、宗勝の子(養嗣子の説有)の内藤忠俊が城主となります。忠俊はキリスタン大名として有名な内藤ジュアンです。ジュアンは内藤家の内紛で天正初期に八木城を退去したようで、その後は内藤有勝が城主だったようで、天正七年(1579年)、明智光秀の丹波攻めで八木城は落城し内藤氏は滅亡しました。内藤ジョアンは文禄の役で小西行長の客将として秀吉軍に加わり朝鮮半島へ渡り、朝鮮を経て明国北京に赴き講和に活躍しました。その後は高山右近とともに加賀の前田氏に仕えましたが、慶長十九年(1614年)に徳川氏のキリスタン禁教令により高山右近とともにフィリピンのルソン島に追放され、寛永三年(1636年)にマニラにて没しました。八木城は内藤氏の後、明智光秀が支城として使用したと推測されますが、廃城はとしては、天正十年(1562年)まで存続したかは不明のようです。

  
  
主郭東側の堀?・帯郭?
  
二の郭付近から主郭方面
  
内藤法雲郭群北端堀切西側残存石垣
北郭群内藤五郎郭のU字の土塁
主要部西側下と二の丸の堀切
内藤法雲郭群南端堀切
現地案内板より(加筆)
主郭からの眺望
奥方屋敷から雲海
  
主郭
主郭からの眺望
主郭から雲海
主郭から雲海

近くの城・関連の城:

          

城跡遠景
登り口
麓の居館地域
中腹の対面所の尾根(左手上)
中腹の対面所背後御茶屋土塁と堀
対面所        大八木但馬の郭
主郭下
U字土塁
馬屋
   主郭土塁          主郭金の間(天守櫓?)
主郭金の間
主郭
主郭西下残存石垣
主郭南下U字土塁のある郭(奥方屋敷)    主郭東下石垣
主郭東下
主要部西先端郭
主要部下堀切       主要部先端郭土塁
北郭群
北東側郭群真ん中堀切の斜面石垣      北東側先端郭の土塁    
内藤五郎の郭
堀切
堀切
並河重郎の郭(北の郭)
並河重郎の郭(北の郭)
南尾根郭(内藤土佐郭)
主郭から西下郭方向
主郭の切岸     郭の土塁
郭からの眺望
西尾根郭群
二の郭手前堀切
 二の郭
内藤和泉郭(二の郭)と土塁
内藤和泉郭(二の郭)と土塁
内藤和泉郭と二の郭の切岸
西尾根段郭群(八木玄蕃郭群)を上から
内藤和泉の郭   堀切   八木玄蕃の郭
堀切と土橋
段郭
西尾根別郭群(内藤法雲郭群)
郭群南側段郭切岸 
郭群南側広い尾根郭
郭群南側郭端砲台状郭(櫓台?)
砲台状郭から大堀切斜面の石垣
砲台状郭から大堀切斜面の石垣
南郭端下大堀切
南郭端下大堀切
南郭端下大堀切
南郭端下大堀切
     両郭群鞍部    郭群北側段郭切岸
郭群北側段郭切岸      北側頂部郭
北郭端下堀切
北郭端下堀切(東から見る)
内藤法雲郭群北端堀切西側残存石垣(東側)
内藤法雲郭群北端堀切西側残存石垣(西側)
内藤法雲郭群北端堀切西側残存石垣(西側)
北郭端下堀切(西から見る)
 
麓の東雲寺(居館跡)      城跡遠景    
 
主郭からの眺望
晴れてきた雲海
妙見宮側谷間の謎の石垣(妙見宮関連?)
妙見宮側谷間の謎の石垣(妙見宮関連?)